■高岡の近代化の礎を築いた政治家/鳥山敬二郎(とりやまけいじろう)(1842~1926)
敬二郎は明治・大正の実業家・政治家です。度量が広く豪快な性格で、高岡木町の旧家・鳥山家(小竹屋)29代として生まれました。鳥山家の初代・時成は南北朝時代の鳥山城(群馬県)の城主であったといいます。その後、鳥山家は利長に招かれ木町で廻かいそう漕業を営み肝煎(きもいり)職などを担いました。
1869年の飢饉では、貧民救助に尽力し、高岡の5,000人もの人を助けました。その功績により翌年、藩から高岡総町肝煎に任命されます。翌年、農民に肥料を販売する「豊饒(ほうぎょう)社」を設立。後に藤井能三らと高岡米商会所(べいしょうかいしょ)を設立するなど経済界でも活躍します。
廃藩置県後の1874年、高岡城跡(古御城(ふるおしろ))・桜馬場が民間に払い下げられた際は公園指定に奔走(桜馬場は自社で買い取り、のち市に寄付)。のち公園に監視人を置き、維持基金を創設、瑞龍前田公遺徳碑を建造するなど公園整備に尽力しました。
1882年、中等学校「越中義塾」を創設。1892年には官営北陸鉄道(現あいの風とやま鉄道)敷設に活躍します。1902・04年の2度衆議院議員となります。1913年、高岡市長に就任し、2期8年の間、北鮮航路の開設、中越鉄道の国営化、高岡高等商業学校の誘致など高岡の近代化の基礎を築きました。1921年、任期満了により職を辞すると10ヶ月も市長が空席となるなど当時の存在の大きさがうかがえます。(仁ヶ竹主幹)
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