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【故郷の人物を知ろう】たかおか温故知新(おんこちしん)

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富山県高岡市

■公正無私の政治家/上埜安太郎(うえのやすたろう)(1865~1939)

安太郎は砺波郡上向田(かみむくた)村(現福岡町上野(うわの))の豪農の家に生まれました。富山の儒学者・岡田呉陽(ごよう)塾で学びましたが、父の死により勉学の道を断念します。地域の指導者として活動する傍ら仏教精神を学び、自由民権運動に参画します。1886年、砺波郡役所が突如石動町(現小矢部市)から杉木新町(すぎのきしんまち)(現砺波市)へ移されたことに怒り、反対運動を展開して政界へ身を投じます。1892年、県会議員に当選。1896年に再選され議長になります。同年の郡制施行の際、安太郎の主導で砺波郡を東西に分け、西砺波郡役所は再び石動町に置かれました(小矢部市城山(しろやま)公園には安太郎の銅像が建つ)。1902年、衆議院議員に当選、以来連続10期29年間務めました。
1922年、高岡市では、10ヶ月も市長が空席となるなど市政が混乱しており、安太郎は市会から懇願され衆議院議員のまま第9代高岡市長に就任しました(~1926年)。その間、官立高等商業学校(現富山大学経済学部)の誘致、下関(しもぜき)村の編入や裁判所の移転、掛開発(かけかいほつ)地内の耕地整理、市立高等女学校の移転、高伏(こうふく)道路の計画や上水道敷設の調査など、市の重要事項を次々と遂行しました。1927年には鉄道政務次官、1930~1932年には富山市長も務め、国・県・市政の発展に貢献しました。安太郎は「天地に私心無し」を座右の銘とし、生涯清廉潔白な信念を貫いた政治家として慕われました。(仁ヶ竹主幹)

問合先:博物館
【電話】20-1572

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