■高岡初の町絵師/堀川敬周(けいしゅう)(1789頃〜1858)
高岡は江戸後期、商工業、特に銅漆器、染物などが盛んになり、製品図案の需要も高まってきました。この頃に現れたのが、町絵師・堀川敬周です。町絵師は町民の求めに応じてあらゆる画題を描く画家です。
敬周は堀上町の染物屋湊屋平助の二男に生まれ、絵師・堀蠖翁(かくおう)の養子となって片原中嶋町に住みました。家業の染物図案を描いていましたが、京都に出て画壇の中心であった四条派の紀広成(きのひろなり)(山脇東暉(とうき))、東東洋(あずまとうよう)に学びました。
敬周は文化末期(20代後半)頃に帰郷し、高岡での先駆的な町絵師として活躍します。多くの天神図や恵比須大黒、市井(しせい)の人々などの洒脱(しゃだつ)な風俗画や格調高い山水図や龍虎(りゅうこ)図のほか、蘭方(らんぽう)医長崎浩斎(こうさい)の依頼による人体解剖(かいぼう)図など幅広く描きました。また金沢の俳人・桜井梅室(ばいしつ)に師事(しじ)して俳諧(はいかい)も嗜(たし)なみ、江戸の四詩家(しか)と称される大窪詩仏(おおくぼしぶつ)や瑞龍寺18世・閑雲(かんうん)ら漢詩人など多くの文人墨客(ぶんじんぼっかく)らと親交をもちました。また、敬周は銅器漆器仏壇の図案彫刻の指導改善に尽力した高田蕙圃(けいほ)ら多数の弟子を育成したと伝わっています。代表作の一つである《高岡町奉行肖像》に描かれた顔の表情や衣装などの詳細な表現から敬周の卓越した技術を見ることができます。
(仁ヶ竹主幹)
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