文字サイズ
自治体の皆さまへ

【文化財再発見コーナー】たかおか温故知新(おんこちしん)

4/45

富山県高岡市

■開拓者(かいたくしゃ)/沢田清兵衛(せいべえ)(1764~1829)
清兵衛は現高岡市戸出光明寺の肝煎(きもいり)(村長)を務めた沢田家の38代目として生れました。幼名は左知蔵(さちぞう)。幼少時より神童といわれた清兵衛は学問を好み、しばしば京都へ行き漢籍も学びました。また、算額・測量を現射水市の石黒信由に学び、現高岡市内島の十村(とむら)の五十嵐家で開拓に努めました。水墨画にも優れるなど多才(号は碧林(へきりん))で、貧農の救済に尽くし、人々の敬慕を集めていました。
1789(天明9)年2月、庄川・千保川の大洪水で下流一帯が被害に遭い、皆が絶望するしかない惨状を見た清兵衛は私財をなげうち復興に乗り出します。被災地を歩いて回り、精密な地図を作り復興策を立案。加賀藩にその策が評価され、1793(寛政5)年に責任者に任命されました。毎日川原の小屋で、自分で雇った人夫(にんぷ)らと共に過ごし、復興開墾に尽力しました。
清兵衛らの努力が実り1801(享和元)年、砺波郡射水郡の庄川流域、20数ヶ村に2,100ヘクタール余の美田が生まれました。その後も更に3,100ヘクタール余を開き、大小120の用水路を整備しました。藩は23石弱を与えその功を賞しました。没後、郷民(ごうみん)は清兵衛を川原神社に祀り(現在は戸出光明寺の加茂神社境内)、命日の10月26日には法要を営み、その徳を慕い続けました。1924(大正13)年2月には従五位(じゅごい)が贈位されました。(仁ヶ竹主幹)

問合先:博物館
【電話】20-1572

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU