■将軍慶喜(よしのぶ)の侍医(じい)/坪井信良(しんりょう)(1823~1904)
信良は幕末・明治期に活躍した蘭方医(らんぽうい)・蘭学者です。信良は、高岡利屋町(とぎやまち)の町医者・8代佐渡養順(ようじゅん)の二男として生まれました。幼名は未び三郎、字(あざな)は良益(りょうえき)です。1840年、京都の蘭方医小石元瑞(げんずい)に、のち江戸の蘭方医坪井信道(しんどう)に医学を学び、1844年、信道の養子となります。さらに大坂で緒方洪庵(おがたこうあん)に医学・蘭学を、広瀬旭荘(きょくそう)には漢籍(かんせき)を学ぶなど見識を深めました。1853年以降、福井藩主松平春嶽(しゅんがく)の侍医兼藩校教師になります。
1858年、天然痘対策の医療機関「お玉が池種痘所(しゅとうじょ)」(東大医学部の前身)設立に参画。同年、幕府の洋学研究機関である蕃書調所(ばんしょしらべしょ)の教授補になります。1864年に将軍とその家族を診る奥医師を経て、1866年には最後の将軍徳川慶喜の侍医になります。
1868年1月、鳥羽伏見の敗戦後、慶喜は僅かな人数を連れて大坂から江戸へ戻りますが、信良も同行しました。維新後、慶喜に従い駿府に移り、静岡病院頭並(かしらなみ)となります。1873年日本で2番目の医学雑誌『医事雑誌』を創刊。翌年、東京府病院総取締役に就任します(~1876年)。退隠後も著述を続け『カンスタット内科書』48巻など翻訳書も多数出版しました。1846年から77年までの間、高岡の兄・9代養順へ送った書簡約200通には、慶喜の近くで体験した幕末維新期の事件や出来事が記されており、同時代を知る貴重な資料となっています。(仁ヶ竹主幹)
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