■漆芸の名工で国学者/辻丹甫(つじたんぽ)(1722~1805)
丹甫は現高岡市辻の出身で、高岡工芸漆器の祖とされます。幼少時、須田の長念寺に養子に入れられますが、のち実家に戻され、高岡御馬出町に移ったといわれます。屋号は砺波屋、名は伊右衛門。別号は丹たん楓ぷう、今いまみち道、荒虫(あらむし)など。
宝暦期(1751~64)頃に京都で漆を何度も塗り重ねて彫刻する堆朱(ついしゅ)(黒(こく))など中国風の漆芸を学びます。擬(ぎ)堆朱(黒)といって、木地を直に彫刻し、朱(黒)漆を塗り、灰墨(かいぼく)様の古味(ふるび)を付けたり、漆錆を型抜きして薄肉模様を彫る技法や存星(ぞんせい)(彩(いろ)漆を塗り線彫りする技法)などの技法を高岡にもたらしました。これらは「丹甫塗」と総称され、雷紋や亀甲の地紋の上に草花鳥獣、青海波(せいがいは)、牡丹、孔雀などを彫り出したものが多く、立体感と独特の艶が表現できるのが特徴です。高岡御車山の通町の後屏(こうへい)や木舟町の高欄・人形などは丹甫作と伝わっています。
また上方(かみがた)で国学者・建部綾足(たけべあやたり)に俳諧・和歌を、次いで賀茂真淵(かものまぶち)の門弟加藤宇万伎(うまき)に国学を学びました。「雨月物語」で知られる同門の上田秋成や賀茂真淵門派の国学者本居宣長(もとおりのりなが)とその後継者の本居大平(おおひら)らとも交際があり、高岡では漢学者・寺崎れい洲(しゅう)らを指導しました。漆芸で有名な丹甫ですが、詩文·国学にも親しんだ優れた文化人でした。著作に『いはほぐさ』、『喉音用字考(こうおんようじこう)』、『今道集』、『小貝』などがあります。(仁ヶ竹主幹)
※「寺崎れい洲」の「れい」は環境依存文字のため、かなに置き換えています。正式表記は本紙をご覧ください。
問合先:博物館
【電話】20-1572
<この記事についてアンケートにご協力ください。>