■近代高岡捺染(なっせん)の父/笹原文次(ぶんじ)(1857~1927)
文次は近代高岡捺染の基礎を築いた人物です。守山町の生まれで、代々絹染業を営んでいた笹原家の五代目でした。
江戸時代、高岡産の「高岡染」は一大ブランドでしたが、明治に入り、関西の新しい染色工業に押され、衰退します。この難局を乗り切るため1881年の25歳頃より染色機械の改良の研究を重ねますが、1884年には破産状態に追い込まれます。しかし同年、研究の苦労が報われ「捺染直接摺込(すりこみ)法」を発明します。染料を生地に写す際に用いる型紙を量産に耐えうる亜鉛板型に置き換え、さらに従来絹地にしか用いられなかった塩基性染料を改良して、木綿地に応用したものです。この製法を用いた「新モス友禅」といわれた商品は、鮮麗な色彩と斬新な意匠を持ち、京友禅と見劣りせず、しかも量産が可能なために安価であり、たちまち全国に販路を伸ばしました。1898年には文次を中心に高岡染業(工員70人)が設立され、近代産業としての「高岡捺染」が誕生しました。同業者は次第に増加し、1908年には組合も結成。1911年までに18の捺染工場が設立されました。
文次はその間も研究・改良を重ね多くの特許権を取得。また数々の博覧会で受賞し、業界の名声を高めるとともに、晩年は後進を指導しました。高岡捺染はその後も発展を続け、1935年には日本一の生産額を誇り、平成の初め頃まで銅器と並ぶ高岡の花形産業でした。(仁ヶ竹主幹)
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