■二上山養老寺(ようろうじ)を再興した父子/更級国政(さらしなくにまさ)と一専(いっせん)
▽更級国政(1503~90)
国政は信州の豪族村上氏の庶子・更級国重(くにしげ)より11代目です。通称は右近太夫(うこんだゆう)。のち越後高岩城主・更級主膳(しゅぜん)の養子となります。天文末年(16世紀中頃)より越中に住み、海老坂村(えびさか)(高岡市)など数ヶ所を所領としていました。二上山には古代より二上大権現(だいごんげん)を祀る真言宗「養老寺」(射水神社)をシンボル的な頂点として、多くの社寺がありましたが、度重なる兵乱で数度焼失しました。国政はその堂社を再建し、次男の僧・一専を再興の祖と定めます。1578年、能登の武将・長連龍(ちょうつらたつ)が上杉氏に追われて守山城の神保氏張(じんぼううじはる)を頼ると、国政・一専父子は連龍を保護し、兵糧米などを贈るなど甚だ懇意でした。連龍が越中で数度合戦をした際には国政も協力し、度々戦功を挙げたといいます。
▽一専(堀内景広(かげひろ))(1546~1600)
幼名は龍王丸。8歳で高野山にて出家。国政が二上山養老寺を再興するとその祖とされ、「二上山養老寺本覚坊権大僧都法印(ほんかくぼうごんのだいそうずほういん)一専」と名乗りました(のち二上の金光院(こんこういん)へ移住)。父と共に連龍を支援し、1579年、連龍が湯山(ゆやま)(氷見市森寺)城主・河田主膳を攻撃した際も奮戦し、武功を挙げました。その後も各地で活躍したので、能登に戻った連龍は一専を還俗(げんぞく)させて、領地も与えました(のち堀内景広、一秀(いっしゅう)などと改名)。1600年8月9日、関ケ原の戦い前に北陸で起こった浅井畷(あさいなわて)の合戦において、一専は前田軍の殿(しんがり)(最後尾)を務めた連龍に従い、敵兵1人を討ち、2人を負傷させましたが戦死します。浅井畷古戦場(小松市)には一専の供養塔が建てられ、墓は長楽寺(中能登町)にあります。
(仁ヶ竹主幹)
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