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【故郷の人物を知ろう】たかおか温故知新(おんこちしん)

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富山県高岡市

■高岡の名町奉行(ぶぎょう)/小川安村(やすむら)(1728~1806)
安村は江戸中期の加賀藩士(官僚)です。通称は八左衛門、八郎右衛門。号は帯山。加賀藩士・高畠定延(たかばたけさだのぶ)(藩の歴史書『菅君雑録(かんくんざつろく)』著者)の二男で、同藩士の小川弥左衛門(500石)の養子となります。1764年5月(3月とも)から1780年8月までの16年余り高岡町奉行を務め、その間、行政・商業・消防など数々の機構改革や綱紀粛正、道徳の普及などを実施し名奉行といわれました。1772(明和9)年に、鰯(いわし)類など塩干魚(えんかんぎょ)を取り扱う四十物(あいもの)師の高額な税金撤廃運動が起こると、安村は同僚の大野仁兵衛と共に大幅な緩和をしました。四十物師が多く住んだ川原町では報恩のため近年まで毎年「鰯祭り」を行っていました。また、1771(明和8)年には高岡町図(市指定文化財)を製作し、高岡の歴史などを詳細に記した解説書『越中国高岡町図之弁』を著しました。その中で、高岡は風水上「四神相応」の地勢で「天下ノ座城(ざじょう)トモ可成(なるべき)」であり、城地として大坂・江戸よりも優れていると絶賛しています。町奉行の後、安村は組外番頭(くみがいばんがしら)、倹約奉行、石川門造営方(かた)、御用人など主に経済官僚として活躍。藩校明倫堂の師範も務め、1803(享和3)年に隠居しました。また安村は儒学(じゅがく)者でもあり、法を整備して、持てる者の過度な奢侈(しゃし)は取り締まるべきとした『職学弁』(1789年)や、一方庶民のための消費は奨励すべきとした『樹守(きまもり)』(1800年)などの経済思想書も著しました。
(仁ヶ竹主幹)

問合先:博物館
【電話】20-1572

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