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自治体の皆さまへ

知っておきたい上関 ~残したい大切な ひと・まち・こころ~(1)

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山口県上関町

上関町在住のシニアの方々にお話を聞き、後世に伝えていきたい事や守りたい技術、ふるさとへの想いなどをお伝えするコーナー。読んでくださる皆さまの、心の栄養となりますように。
武内 禎子さん(82歳)

初めてのギャラリー武内訪問、わくわくしながら向かった先で武内禎子さんが笑顔で迎えてくれました。
展示された色彩豊かな油絵やトールペイント、葉書や写真など…それらの作品を説明してくださる禎子さんのお話がとても興味深く、時間を忘れてしまいます。
「そもそもなぜ上関にギャラリーを?」その答えは、禎子さんの人生を遡ることなくしては語れません。2回にわたって一緒にふり返ってみましょう。

■2004年Uターンの決断
東京の恵比寿でエステティシャンとして、また経営者としてバリバリ働いていた禎子さんがUターンを決めたのは、今から20年前の62歳の頃でした。マンションエステを開業して10年、帰るきっかけとなったのは喘息の発症。
「当時はお客様も100人くらいいて、1年間本当に悩んだのよね…」と禎子さん。エステ事業も軌道にのり、常連さんもたくさんいた中でお店をたたむのはとても大きな決断でした。
思えば禎子さんの人生は、数々の決断の連続でした。

■生い立ちと最初の転機
武内禎子さんは武内医院の5人兄妹の4番目の娘として、医師の父と音楽教師の母に育てられました。幼い頃から絵を描いたりして一人で遊ぶことが苦にならないタイプ。床の間のお花を生けるのは禎子さんの仕事で、小さなころから美に触れてきました。高校は下宿しながら柳井高校へ通い、その後は東京の短大へ進学。卒業後は上関に戻り、武内医院の手伝いをしていたそうです。
「戻ってきてからたくさんお見合いしたわよ~。でもご縁はなかったわね」と、軽快に話す禎子さん。今だから言える話ですが、実は気がのらないお見合いにうんざりしていたのでした(笑)。
1972年、最後のお見合いできっぱりと見切りをつけ、やりたいことを実現するため上京を決めます!禎子さん30歳のことでした。
では、そのやりたいこととは一体何だったのでしょう?

■目標達成のため上京
それは華道の師範の免許家元教授(最高位)を取得することでした。
幼い頃から華道にも親しみ、学生時代に遠州流正教授の資格まで有していた禎子さんにとって、家元教授の取得は自然な流れ。「東京でも家元の良い先生に恵まれて、素晴らしい経験をさせていただいたのよ」見せてくださった写真には、アメリカ建国200年祝賀華道親善大使として訪米中のもの、1964年の東京オリンピックにて選手村にお花を生けた時のものなど、特別な経験がたくさん。
そして禎子さんは華道だけではなく表千家茶道の師範も有していました。当時の嗜みと言えば茶華道、同時に花嫁修業でもあったそうですが、両方の師範を取得し生徒を抱えていたとは改めてすごいことです。

■充実した製薬会社勤務時代
30歳で上京した禎子さんは、生活費を稼ぐためにアルバイトを始めます。紹介してもらったのは製薬会社で、社長はなんと丹波哲郎さんのお兄さん!その社長の秘書として仕事をスタートしました。
「社長に同行する先々で、茶道で身についた所作が初めて生きたと思ったわ」と禎子さん。何事も無駄にはならないと力説。社長秘書として2年勤め、改めて正社員として化粧品部門へ。主に薬剤輸入の申請業務を行いました。輸入の申請=海外とのやりとりですから、海外出張でカナダやヨーロッパに行くことも。
「英語が喋れないのになぜか無茶ぶりされるの。でも何とかなるのよね~(笑)」西ドイツに行った際の経由地モスクワでの入国審査の話は、ベトナム戦争後ということもあり、聞いている私がドキドキハラハラ。サバイバル力が半端ない禎子さんの話に、驚きを隠せませんでした。事務の仕事以外にも企業の展示会で営業をしたり、カナダの大使館でクレイパックエステの実技講習を行ったりと、忙しくも充実した日々を送っていた禎子さん。そこでまたしても転機が訪れます。

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