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自治体の皆さまへ

明日の漁業を語る(1)

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山口県下関市

■新春×対談
※敬称略

◇村下真生
1986年生まれ。下関市出身。市内民間企業(造船業)を退職後、2021年に漁業の独立経営を開始。漁法の幅を広げつつ、一本釣り等を行う。

◇泉保匡
1980年生まれ。大阪府出身。
2022年に父の故郷下関に移住し、伯父が経営する株式会社泉水産で勤務を開始。中型まき網漁業を行う。

◇武井聡
1974年生まれ。神奈川県出身。家族と共に下関への移住を決意し、2015年に漁業の独立経営を開始。主にわかめ養殖等を行う。

◇前田晋太郎
1976年生まれ。下関市出身。長崎大学水産学部を卒業後、2011年に下関市議会議員に初当選。2017年から下関市長に就任(2期目)。

明けましておめでとうございます。市長の前田晋太郎です。
市民の皆さまにおかれましては、令和6年の新春を健やかにお迎えのこととお慶び申し上げます。
昨年は新捕鯨母船「関鯨丸」の母港化の決定など下関の水産業に関する明るい話題が多くありました。そこで、今年の新春対談は、3人のニューフィッシャー(新規漁業就業者)をお迎えし、この対談を通じて、市民の皆さまに、下関の漁業を身近に感じていただければうれしく思います。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

●漁師になるまでの道のり
市長
皆さんが漁師にチャレンジをしたきっかけは何ですか?

武井
私は元々、東京で15年間システムエンジニアとして会社勤めをしていました。時間に追われる日々で「せめて家に帰った時に、家族と一緒に夕飯を食べたい」という強い想いや、いろいろな要因があり、思い切って退職したんです。その時点では、漁師をやりたいとはまったく思っていませんでした。
退職後、知人のつてで農業に関わり、自然の中で汗を流すうちに、気持ちが一次産業に傾いていきました。いろいろと模索し、最終的に漁師の道を決断したのは、私が根っからの釣り好きだったからです。
小学生の頃の私は、漫画「釣りキチ三平」みたいな子どもで、ブラックバスを釣りに1人で電車を乗り継いで、関東圏内の他県へ遠出したりして。サラリーマン時代も、どんなに忙しくても、休暇の夜にはスズキを釣りに行っていました。

市長
すごい小学生ですね(笑)!釣り好きから漁師へ。何より説得力がありますね。泉さんはいかがですか?


私は、泉水産のまき網漁業は「誰か」が継承し、続いていくものだと思っていました。大阪で勤めていた頃、父から「いつかは泉水産がなくなるかもしれない」と聞き、「なぜ俺は漁船に乗っていないんだろう」と居たたまれない気持ちになりました。以前、泉水産で働きたいと父に相談した時に「簡単に漁師ができると思ったら大間違いだ。覚悟が足りない」と言われました。

市長
厳しい身内の声ですね。何歳の頃の話ですか?


30歳代半ばです。考えに考えて、今自分にできることをやって筋を通そうと、決意したのが41歳。漁師になる方法や漁師への支援制度を調べて、1級船舶免許を取得した上で、もう一度、父に想いを伝えました。父は「自分の言葉で社長に伝えてみろ!決めるのは社長だ」と言いました。
泉水産の社長にお会いした時はかなり緊張しました。「40歳を超えた私を、果たして受け入れてくださるだろうか。もし追い返されたら、他で乗組員として修行を積んで出直そうか…」そんな心境でした。社長に頭を下げ、想いを告げたところ、社長に「やる気があるならやってみろ」と言っていただけました。今は仕事で結果を出したいと思っています。

市長
大阪から下関に、本当に腹をくくって…壮絶な覚悟ですね。


下関に骨を埋める覚悟で、泉水産にいます。

市長
村下さんはいかがですか?

村下
僕は造船所で働いていた時に「何か物足りない。このままで人生が終わるのか…?」という気持ちがありました。いろいろチャレンジをしてみましたが、何がしたいか思い付かない…。そこで「何が好きか」を考え、たどり着いたのが釣りでした。
そんな時に、タイミング良く、山口県漁業協同組合主催の漁業就業支援フェアを知り、すぐに調べて参加しました。

市長
フェアはどうでしたか?

村下
各ブースに大勢の参加者がいました。釣りが好きという理由で一本釣りができるブースを探していて、下関市内の二見支店に1枠募集を見つけて、チャレンジした結果、研修生として受け入れていただきました。

市長
村下さんが獲ったあのタイ(表紙写真)も一本釣りですか?

村下
あれは「落とし込み釣り(一本釣りの一種)」でしたね。時期によって漁法を変えています。

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