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ふるさと歴史アラカルト

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山口県岩国市

■中世岩国と錦川の川筋

岩国の歴史を見たとき、吉川家が岩国へ移る前(戦国時代以前)の時代は、資料が少なく不明なことが多くあります。しかしそうした古い時代について、江戸時代や明治時代の人たちは痕跡を調べ、記録として現代に伝えています。今回は、後の時代に作られた資料を頼りに戦国時代以前の岩国の様子を探り、現在との違いを見てみます。
まず、戦国時代以前の岩国の様子をうかがい知る手掛かりとして、旧岩国藩士で、吉川家の歴史編纂(へんさん)事業にも関わった藤田葆(ふじたしげる)が明治時代末頃に記した絵図があります。
絵図を見ると、錦川の流路が現在に繋がる川筋だけでなく、錦見周辺(現在の岩国や錦見)へ二筋に分流していた様子が描かれています。その一筋は現在の国道2号の一部(錦見交差点~錦帯橋入口交差点)と、錦帯橋バスセンターへ分岐した道路に重なる部分を流れていたとされています。
錦見を流れていた支流の名残は文書資料からもうかがえます。例えば、江戸時代の岩国の地誌『玖珂郡志(くがぐんし)』によると、戦国時代以前に岩国で力を持った弘中氏の居城・亀尾城址(かめがおじょうし)の麓付近は沼地となっており、湿地帯であったことが記されています。先ほどの絵図でも、亀尾城址の麓付近に支流が流れていますが、支流の影響で湿地帯となったことが推察されます。
また同資料では他にも支流の存在を裏付ける記録が書かれています。例えば、錦見に住んでいた武士・中島家の屋敷(現在の岩国四丁目)の前には「河岸バタ」、現在の錦見一丁目辺りは「川原田」と呼ばれる地名が残るなど、支流の痕跡を示すものが多くあります。さらに、二筋の支流の旧河道と思われる場所からは貝が出土したり、土に塩気が含まれていたことも記録されています。
これら資料から、かつて錦川の支流は藤田が描いた絵図のように、錦見周辺を流れていたと考えられます。現在とは異なった岩国の様子を知ると、改めて歴史の面白さを実感します。

◇岩国徴古館(いわくにちょうこかん)
昭和20年に旧岩国藩主吉川家によって建てられ、その後岩国市に移管された市立の博物館
住所:横山二丁目7-19
【電話】41-0452
休館日:月曜(祝日の場合はその翌日)

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