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〔郷土史コラム〕やないの先人たちの知恵と汗-中世編

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山口県柳井市

■武士の社会になった柳井(2)・地頭の居所
市教育委員会社会教育指導員松島幸夫前回は与田保(よだほ)(現在の余田)の地頭が鎌倉時代に数々の非法を繰り返したことを見ていきました。農民をいじめる悪党ではありましたが、神仏に対しては恐れを抱いていました。地頭の与田(よだ)光朝(みつとも)は元徳3(1331)年に、菊花流水双鶴鏡(きっかりゅうすいそうかくきょう)の懸仏(かけぼとけ)を野寺(のでら)に寄進しています。懸仏とは鏡に仏像を貼り付けたり刻み込んだりしたもので、壁に懸けて崇拝しました。与田保の地頭が寄進した懸仏の裏面には菊花や鶴などのレリーフが施してあり、表面には薬師如来坐像(やくしにょらいざぞう)が線刻(せんこく)してあります。貴重な文化財のため、東京国立博物館に保管されています。
さて与田保の地頭はどこに居館を構えていたのでしょうか。余田の南東部に「土井(どい)」の小こあざ字名があります。土井(土居)の地名は、中世武士の居住地を表します。急な崖に囲まれており、戦いの際には砦として相応(ふさわ)しい地形です。崖の裾には堀を設置していました。その堀の一部が現在では鯨池(くじら)と称する農業用水の溜池になっています。かつて鯨が海から迷い込んだ折りに、住民が救出したとの微笑ましい民話があります。しかし池は標高約20mに位置しており、鯨の話は理に適(かな)いません。地頭が公務遂行(公事(くじ))のために与えられた給料地である公事領(くじりょう)が「クジラ」に訛なまったと推察されます。また近隣には夕作の地名もあります。治安活動を遂行するための稲田を用作(ようじゃく)と称しますが、後に夕作の表記に変化したのです。梶(かじ)や鋳物師屋(いもじや)の地名もあり、そこでは鍛冶師(かじし)や鋳物師(いものし)が武器や農具を生産していました。
武器を手にして悪行を重ねてきた与田氏でしたが、やがて貞和3(1347)年に室町幕府が与田氏を追放します。時間はかかれども武力による支配者は、必ず終えんを迎えるのです。

問い合わせ:文化財室
【電話】22-2111内線333

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