■柳井地域の海賊(1)・大畠瀬戸の太守
市教育委員会社会教育指導員松島幸夫
前回と前々回は、与田保(よだほ)(現在の余田)の地頭を例にあげて、柳井が武士社会に巻き込まれていく様子を見ていきました。今回と次回では海辺に目を移して、海賊の活躍を見ていきましょう。
ここ柳井地域では、大畠瀬戸と上関瀬戸が海賊にとって最高の活躍舞台でした。狭い海峡である大畠瀬戸では潮の渦に舵を取られ、見え隠れする岩場に衝突して座礁する船が頻発しました。そのため遠方から来た船は、複雑な潮流と地形を熟知している地元の漁民に水先案内を頼みました。大畠の漁民は依頼主の船に乗って右へ左へと進路を示し、無事に瀬戸を通行させて案内料を受け取りました。やがて案内をしなくても通行税として、すべての船に関銭をかけることにします。関銭を確実に徴収するためには、武装しなくてはなりません。海賊と称する武装集団の出現です。
嘉吉(かきつ)3年(1443)に朝鮮国で書かれた「海東諸国記(かいとうしょこくき)」には「周防州大畠太守(すおうしゅうおおばたけたいしゅ)海賊大将軍(かいぞくだいしょうぐん)源朝臣芸秀(みなもとのあそんげいしゅう)」が遣使(けんし)を送ってきたとの記載があります。朝鮮国と交易をして収入源とするため、大畠の海賊が使者を派遣したのです。この記載には、大畠の統率者が自らの称号として「海賊大将軍」を使っています。「海賊」の言葉には、海における盗賊との悪いイメージではなく、尊称としての意味があったことが推測できます。
「兵庫北関入船納帳(ひょうごきたせきいりふねのうちょう)」の記録によると、文安(ぶんあん)2年(1445)に大畠の四郎右衛門の船が、米120石と豆50石を積んで兵庫北関に入港したとの記載があります。大畠海賊は結局朝鮮国との交易には失敗しましたが、そのぶん国内での交易を充実させて関銭に替わる収入源を模索したのです。
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