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〔郷土史コラム〕やないの先人たちの知恵と汗-中世編

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山口県柳井市

■柳井地域の海賊(2)・村上氏が築いた上関城
前回は大畠海賊について考察しましたが、今回は上関海賊について見てみましょう。
大畠瀬戸においては、地元の漁師たちが水先案内の組織を作り、やがて武装化したことを紹介しました。一方で上関海峡においては、遠方から海賊がやって来て海峡を占拠し、城を築きました。村上海賊が上関にまで勢力を伸ばしたのです。村上氏は現在の「しまなみ海道」の因島(いんのしま)、能島(のしま)、来島(くるしま)の3島に分かれて拠点を置き、連携しあって諸海峡を統治していました。最大勢力の能島村上氏が勢力範囲を拡大し、上関に関銭の徴収基地を置いたのです。前回「大畠太守(おおばたけたいしゅ)海賊大将軍(かいぞくだいしょうぐん)源朝臣芸秀(みなもとのあそんげいしゅう)」が朝鮮国に使者を派遣したことを紹介しましたが、その記載がある朝鮮国で書かれた「海東諸国記(かいとうしょこくき)」には上関海賊について、村上義就と正吉が使者を派遣してきたと記されています。やはり朝鮮国との交易を有利に運びたいとの意図が感じられます。海峡を見下ろす急崖(きゅうがい)の上に築かれた上関城には、石垣を巡らし、主郭(しゅかく)だけでなく副郭(ふくかく)を付属させて堅固な構えにしていたことが、発掘調査によって判明しました。しかしながら崩落防止のために城跡は削られて、現在では河津桜の名所として知られる歴史公園に改変され、春には多くの人出でにぎわっています。
さて上関海峡では、関銭を払わず強行突破をする事件が天文(てんぶん)20年(1551)に勃発しています。関銭を払えば紳士的に対応しますが、払わず通過すれば襲いかかることになります。突破したのは陶晴賢(すえはるかた)の傘下にある海賊船団です。朝廷や室町幕府に2千石の米を献上するために、停船命令を無視して30隻の船団が通過しました。鉄砲を撃ちかけながら上関を突破したのです。上関村上海賊の怒りは尋常ではなく、本拠の能島海賊と協力して挟み討ちにし、積載米を残らず没収しました。

問い合わせ:文化財室
【電話】22-2111内線333

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