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〔郷土史コラム〕やないの先人たちの知恵と汗-古代編

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山口県柳井市

■知の拠点の完成に向けて(6)・ノーベル賞への知の連鎖
市教育委員会 社会教育指導員 松島幸夫
新知識を貪欲に吸収し、有用な人材になった事例を5回にわたって見てきました。最後に、幕末に知の拠点の役割を担っていた阿月の克己堂(こっきどう)がノーベル賞にもつながっていることを見ておきましょう。
平成20年に益川(ますかわ)敏英(としひで)博士がノーベル物理学賞を受賞しました。原子の中の構造を一層明らかにしたのです。オスロでの授賞式の際には異例の日本語でのスピーチを行い、周囲を湧かせました。
ところで、ある時世界の物理学をリードする益川氏から柳井小学校の児童に対して勉強の心得が届けられました。「努力しなくても、のめり込めるものを見つける。それは向こうからはやってこない」。短文ですが学びの神髄をついた言葉で、ただひたすらに知識欲にのめり込んでいった彼らしい言葉です。「取り急ぎ用件のみにて失礼します」と謝罪しながらも、どうして多忙である大学者が柳井の子どもたちに自筆の封書をくれたのでしょうか。その縁は益川氏の恩師である坂田(さかた)晶一(しょういち)博士と深く関係しています。益川氏の物理学者としての人生は坂田氏への憧れから始まり、彼に学び、彼の研究成果を発展させたことがノーベル賞受賞に結び付きました。益川氏は「このノーベル賞は坂田博士がもらうべきものでした」と涙をこらえながら話されたことがあります。その坂田氏の祖父は阿月に生まれ、克己堂で学び、討幕戦争で活躍しました。克己堂の進取精神と平等精神を受け継ぐ坂田氏は、ノーベル賞学者の湯川(ゆかわ)秀樹(ひでき)博士とともに当時の物理学をリードする双璧でした。阿月の面影山にある顕彰碑には、湯川氏の「知的創造性と人間社会をより良くしようとする情熱とをあますことなく発現され傑出した科学者坂田昌一博士の生涯はいつまでも私たちを感動させ続けるであろう」との賛辞が刻まれています。
さて次回からは柳井の通史にもどり、地頭が置かれた経緯を考察しましょう。

問い合わせ:文化財室
【電話】22-2111内線333

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