■商都柳井への巣立ち・前将軍の宿泊
市教育委員会 社会教育指導員 松島幸夫
明けましておめでとうございます。新年にあたり、お正月にちなんだ出来事を紹介します。
明応(めいおう)9年(1500年)の正月、前将軍の足利義尹(あしかがよしただ)が楊井津(やないつ)に宿泊しています。管領(かんれい)細川氏により将軍職を追われて流浪の身となった義尹が、大内氏に助けを求めて山口に下向(げこう)したのです。大晦日、旅の途中の義尹を乗せた御座船(ござぶね)が楊井津に着岸しました。寒さに身を震わせる前将軍を、楊井津の豪商たちは手厚くもてなしました。瀬戸内の新鮮な魚介を使った料理を前に、前将軍はさぞ御満悦であったことでしょう。義尹は上機嫌で正月を迎え、琴石山の右肩に上る初日(はつひ)に向かって手を合わせ、将軍職への返り咲きを祈りました。お屠蘇(とそ)に酔って楊井津の商人たちと親交を深めたのち、見送りを受けながら山口へ向かったのです。
こうしたことから、楊井津は室町時代の後期、要人が宿泊できる華やかな街であったことが分かります。意匠をこらした豪華な邸宅があり、貴人を喜ばせるおいしい料理をつくる料理人がいたのです。ちなみに義尹は、のちに大内義興(おおうちよしおき)の支援を得て将軍職に返り咲き、足利義稙(あしかがよしたね)と名を改めています。
財力のある楊井津の豪商は、現在の中国との貿易である日明貿易にも関わりました。古い記録に、大内配下の貿易船に「楊井宮丸700石」との記載があり、楊井津の大型回船が日明貿易に使われていたことが分かります。楊井津には久保町の地名がありますが、三角形に鋭く切り込んだ、窪(くぼ)んだ地形であったことにちなみます。そこには大海を渡り明へ行くほどの大型回船が接岸していたのです。久保町で発掘調査をした際に、明銭と宋銭が出土しました。日明貿易によって入手した銭です。大内氏の権勢のもと、楊井津が国際的な街であったことを証明しています。
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