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〔郷土史コラム〕やないの先人たちの知恵と汗-中世編

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山口県柳井市

■大内政権下の柳井(4)・楊井津(柳井津)の職人たち
市教育委員会社会教育指導員 松島幸夫

軍港として、また交易港として発展した楊井津には多種多様な職人たちが集まり工房を構えました。国の重要文化財に指定されている国森家住宅の周辺は、かつて「鍛冶屋(かじや)町」という地名でした。鍛冶職人の工房が軒を並べていたのです。鉄製の武器や農具、台所用品などを生産していました。現在の街路下を発掘調査してみると、下層に多くのスラグ(鉄のカス)が挟まっていました。鍛冶の作業によって生じたスラグを、街路に撒(ま)いたのです。スラグによって路面の凸凹(でこぼこ)が修正され、固く締まりました。
「鍛冶屋町」の東隣は「金屋町」で、その地名は現在でも存在します。銅を高熱で溶かし、型に流し込んで製品にする鋳物師(いもじ)たちが暮らし、寺社の釣鐘(つりがね)や鰐口(わにぐち)などを製作していました。鋳物師たちは自分たちの商圏を守るために同業組合である座(ざ)をつくり、利益を独占しました。ところが享徳(きょうとく)3年(1454)に、楊井津の鋳物師座に不利益をもたらす事件が発生しました。伊保庄の賀茂神社から安芸国(あきのくに)廿日市(はつかいち)の鋳物師に釣鐘の注文が出されたのです。遠方の廿日市に発注したのは、楊井津よりも安価であったからでしょう。廿日市の鋳物師は快く注文を受けましたが、このことを知った楊井津の鋳物師座の人々は立腹し、廿日市の鋳物師に猛抗議をします。その結果、廿日市の鋳物師は楊井金屋の面々に詫(わ)び状を入れ、今後は周防国からの注文は受けないことを確約しました。
楊井津の鋳物師座が高圧的に振る舞った背景には、強大な大内権勢の存在がありました。楊井津の鋳物師座に盾つくことは、西国の覇者である大内氏を敵にまわすことになり、できるはずがありませんでした。

問い合わせ:文化財室(サンビームやない内)
【電話】22-0111

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