■厳島合戦への平郡島民の協力
市教育委員会 社会教育指導員 松島幸夫
前回まで、中世に権勢を誇った大内政権下の柳井について紹介しました。今回は、戦国時代に入った柳井の様子を見て行きましょう。
室町幕府の権威が低下すると、各地で戦闘が頻発します。にもかかわらず柳井地域の住民は戦乱に巻き込まれることなく平穏な生活ができました。大内氏の絶大な権力によって、外部からの侵攻がなかったからです。しかしながら「沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者必衰(しょうじゃひっすい)の理(ことわり)をあらわす」の言葉どおり、磐石(ばんじゃく)であった大内政権もやがて滅びるときがやってきます。貴族文化に浸った大内義隆(おおうちよしたか)が、武力を重んじる重臣の陶晴賢(すえはるかた)に政権の座を奪われるのです。安芸国の山中で苦労していた毛利元就(もうりもとなり)は、大内政権内の交代を絶好のチャンスと考え、弱小ながら強大な大内(陶)側に挑みかかりました。その戦いは弘治(こうじ)元(1555)年に厳島で行われました。元就はおとりの城を築いて大内側の大軍を厳島に引き込みます。岩国を本拠地とする弘中隆兼(ひろなかたかかね)が、先陣をきって大内側の大軍を率いました。柳井の伊陸からは、町野(まちの)氏一族が総力を挙げて厳島に馳せ参じました。一方の毛利軍は悪天候の中を秘かに渡海し、早朝に奇襲をかけて大勝利を手にします。もちろん元就が考えた奇略と武将たちの勇敢な働きによって勝利を得ましたが、その裏には柳井沖の平郡島の漁民の協力があったのです。大内側が多くの軍船を所持していたのに対し、毛利側にはわずかな軍船しかありませんでした。兵員を本土から厳島に渡海させなければ勝利を手にすることはできません。毛利軍は厳島周辺の島々に漁船を出すよう要請しましたが、大内側有利と見たほとんどの島々は毛利側に協力しませんでした。そうした中、平郡島だけが島にあるすべての漁船を出して協力したのです。折り悪く嵐に遭遇して渡海は困難を極めましたが、まさか暴風雨の中を毛利軍が本土から渡って来るとは思わず大内側の兵が酒宴を催したため、毛利軍が勝利したのです。
平郡島民の功績もあり成功した奇襲。江戸時代に入ると、毛利藩はその功績により平郡島民100人を家来として抱えることにしました。
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