■厳島合戦と浦宗勝の活躍
市教育委員会 社会教育指導員 松島幸夫
前回は厳島合戦において毛利軍が大内軍を破った裏には、平郡島民の大いなる貢献があったことを紹介しました。今回は厳島合戦で浦(うら)宗勝(むねかつ)の活躍が勝利をもたらした経緯を探ってみましょう。
なお、浦氏は後に阿月の領主になり、克己堂を創って多くの志士を輩出して討幕戦争に力を発揮し、明治維新の実現に貢献しました。戦国時代の武士の気概が時代を越えて生き続けるのです。
浦氏は小早川氏の血を継いでいます。海辺の安芸(あき)忠海(ただのうみ)(現在の広島県竹原市)を本拠としたので、海辺を意味する「浦」を姓にしました。浦宗勝は、瀬戸内の島々に砦を築く海賊たちを相手にする勇猛な戦国武将でした。さて、弘治(こうじ)元(1555)年に厳島で合戦をするにあたって、毛利方の戦力が劣っていました。毛利氏の本拠である安芸国(あきのくに)(現在の広島県)の吉田(よしだ)郡山(こおりやま)城は山中ですから、海軍力が極端に劣っていたのです。毛利(もうり)元就(もとなり)は海岸に城を構える浦氏を頼りにしました。浦宗勝は村上海賊の統領である村上(むらかみ)武吉(たけよし)を味方にしなくては勝つことができないと考え、村上氏の本拠である能島(のしま)(現在の愛媛県今治市の島)へ向かいます。武吉の心をつかむため、なんと単身で乗り込みました。宗勝の命を惜しまない胆力に惚れた村上武吉は、援軍を出そうと決心します。かくして厳島での戦闘で勝利を手にするのです。
宗勝はその後も数々の功績をあげながら九州にまで攻め込み、天正(てんしょう)15(1587)年には博多を見下ろす立たちばな花城の城主となって2万8千石を領します。五大老となる小早川(こばやかわ)隆景(たかかげ)の右腕として、浦宗勝は国政にかかわり多忙な日々を送りました。そして文禄(ぶんろく)元(1592)年には朝鮮に向けて出兵をします。その際の軍神祭が後に神明祭となって持ち込まれることになります。
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