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〔郷土史コラム〕やないの先人たちの知恵と汗-中世編

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山口県柳井市

■大内政権下の柳井(2)・柳井地域を統治した杉氏
市教育委員会 社会教育指導員 松島幸夫

戦国時代は不安定な社会でしたが、柳井地域の住民は戦闘に巻き込まれることなく、安定した暮らしを営んでいました。周防国は大内氏が絶大な勢力を有しており、勢力争いがなかったのです。大内氏は柳井地域に、重臣である杉氏と仁保氏を派遣して統治しました。今回は杉氏の動向を見てみましょう。
応永(おうえい)2(1395)年に杉重明(すぎしげあき)が、遠崎の統治権を大内氏から与えられています。さらに重明の息子である杉重茂(すぎしげよし)は、伊賀道郷(いがぢごう)(伊陸)の代官職に任ぜられ、さらに応永7(1400)年には日積郷南方の代官職に任じられています。なお日積村に関しては、日積弥次郎(やじろう)なる人物が当時の古文書に登場します。地侍が日積の地名を姓にして、杉氏の配下で現地の実務を担当していたのです。日積弥次郎は観応(かんおう)3(1352)年に大内弘世(おおうちひろよ)に従って参戦し、現在の下松市付近で鷲頭貞弘(わしずさだひろ)軍に討たれて死亡しています。
杉重茂の没後、杉頼明(すぎよりあき)が日積南方代官職を継ぎます。その代官所は、日積川上流の鍛冶屋原(かじやばら)に置かれていました。河岸段丘(かがんだんきゅう)の上にあり、急崖(きゅうがい)に囲まれて防備に適した場所で、発掘調査によって代官屋敷や門などの存在が確認されています。代官所東側の丘陵基部には切堀(きりぼり)跡が現在も残っており、溜池として利用されています。切堀の東側一帯にはおびただしい量のスラグ(鉄カス)が散乱しているので、武器や農具を製造する大がかりな鍛冶工房を設置していたことが分かります。杉氏は柳井湾の奥にも居館を設置し、さらには新庄に代官所を新設しました。
杉頼明の後は、弘依(ひろより)、興頼(おきより)、隆康(たかやす)と続きますが、弘治(こうじ)元(1555)年に玖珂の鞍掛(くらかけ)合戦で杉隆康が毛利軍に討たれたことによって、杉氏による柳井地域の統治は終わりを迎えます。

問い合わせ:文化財室(サンビームやない内)
【電話】22-0111

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