文字サイズ
自治体の皆さまへ

〔郷土史コラム〕やないの先人たちの知恵と汗-中世編

30/42

山口県柳井市

■大内政権下の柳井(3)・軍港として発展した楊井津(柳井津)
市教育委員会社会教育指導員松島幸夫
中世の楊井津は大内氏の勢力拡大に呼応して発展しました。楊井津が大内軍の発進基地になったからです。今回は大内政権の軍港として発展した楊井津の様子を見てみましょう。

(1)大内(おおうち)義弘(よしひろ)軍と楊井津
大内義弘は楊井津から都に向けて大軍を発進させ、数々の合戦に勝利して室町幕府3代将軍足利(あしかが)義満(よしみつ)を支えました。その結果大内氏は、周防・長門・石見・筑前・豊前に加えて和泉・紀伊を与えられ、7か国を領する大勢力に成長します。しかし義弘と将軍義満の親密な関係は続かず、応永(おうえい)6(1399)年に大内軍と幕府連合軍が衝突します。大内義弘は楊井湾に300艘(そう)の軍船を集結させて出陣しました。大内軍は善戦しましたが、幕軍の放った猛火に包まれて堺で敗北してしまいました。

(2)大内(おおうち)政弘(まさひろ)軍と楊井津
大内政弘も楊井津を軍港として利用しました。応仁(おうにん)元年(1467)に応仁の乱が勃発しますが、大内政弘は楊井津で10日間滞留して発進体制を整えました。船500艘にて楊井津を発し、威風堂々と瀬戸内海を東上し、都で華々しい戦果をあげました。なおその際に楊井庄の代官職を伊陸の高山寺から重臣の仁保(にほ)弘有(ひろあり)に替えて、楊井津を完全に掌握しています。

(3)大内(おおうち)義興(よしおき)軍と楊井津
将軍職を追われた10代将軍足利(あしかが)義稙(よしたね)が、大内義興に助けを求めました。要請に応じて永正(えいしょう)5年(1508)に、8,000人の兵員を乗せた船団が楊井津を発進します。その際に地元からは杉氏、楊井氏、神代(こうじろ)氏などが乗船し参戦しています。さらに楊井津から2陣、3陣の軍船団が出陣し、大内軍は総勢25,000人もの大軍になって京都に押しかけました。楊井津が果たした役割は絶大だったのです。

問い合わせ:文化財室(サンビームやない内)
【電話】22-0111

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU