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〔郷土史コラム〕やないの先人たちの知恵と汗-中世編

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山口県柳井市

■毛利軍の防長侵攻(1)・日積村への進軍
市教育委員会社会教育指導員 松島幸夫
前回は厳島合戦で毛利軍勝利に貢献した浦(うら)宗勝(むねかつ)を紹介しました。今回から毛利氏が防長地域を攻略する様子を詳しく見ていきましょう。
厳島合戦において毛利軍が大内(陶)軍を壊滅させたとはいえ、山口には大内(おおうち)義長(よしなが)が君臨していました。そこで毛利軍は、勢いに乗じて防長へ侵攻します。毛利元就は、岩国の永興寺(ようこうじ)に本陣を置きました。軍議の結果、玖珂などの内陸方面へは毛利(もうり)隆元(たかもと)軍と吉川(きっかわ)元春(もとはる)軍が攻め込み、柳井などの瀬戸内方面へは小早川(こばやかわ)隆景(たかかげ)軍が攻め込むことになりました。水軍を抱え、武勇をもって戦場を潜り抜けた小早川隆景軍ですから、瀬戸内沿岸を順調に平定していきます。もちろん浦宗勝が先陣をきりました。
総勢700人を超える小早川軍が、錦川の河口で軍船に乗り込み南下をします。軍団がまず上陸をしたのが由宇の浜です。由井氏(ゆいし)などの地侍が小早川軍に抵抗しましたが、圧倒的な軍事力をもって、たちまちのうちに鎮圧されてしまいました。
次に小早川軍は、由宇川を遡上(そじょう)します。日積盆地に入ろうとするなり、樹々に隠れて待ち構えていた地侍の高木氏が矢を放ってきました。早速に高木党の連中は取り押さえられ、一人残らず殺されました。見せしめのために、党首は釜ゆでにされたとの伝承も残っています。日積盆地に入った大原の川辺には、熊王丸(くまおうまる)(杉(すぎ)頼明(よりあき))が砦を築いていました。杉軍は川辺での防戦は困難と見て、背後の日積茶臼山城の主力部隊へ合流しました。それに対して小早川軍は道見山を陣地とします。
日積茶臼山城での攻防戦については、次回に紹介しましょう。

問い合わせ:文化財室
【電話】25-2424

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