■毛利軍の防長侵攻(2)・日積茶臼山合戦
市教育委員会 社会教育指導員 松島幸夫
前回は毛利軍が防長地域へ進軍する様子を紹介しました。今回は日積茶臼山での合戦の様子を見てみましょう。
防長に侵攻した小早川軍は、由宇川を遡(さかのぼ)り日積川へ進路をとります。日積川と若杉川との分岐点まで来ると、そこには日積茶臼山がそびえ、山城が築かれて軍旗がはためいています。比高約70mとさほど高くはない山ですが、急しゅんな崖が巡っており、攻撃は難しそうです。しかも山裾を削って日積川と若杉川が流れて堀の役割を果たしており、天然の要害です。村人に聞くと、茶臼山城には杉(すぎ)氏配下の重藤(しげとう)因幡守(いなばのかみ)や結城(ゆうき)重忠(しげただ)らが立て籠っているようです。城と言っても戦国時代ですから、山頂を板で囲み、内側に見張り塔や武器庫、兵舎を設けた程度の簡素な造りでした。頂部の周囲には平坦部を巡らして武者走りとし、そこから弓を射かけました。多勢の小早川軍に比べると茶臼山城の兵員は多くはなさそうですが、茶臼山は地形的に優位であり、単純な攻撃では落ちそうにありません。
小早川軍は若杉川を挟んで、茶臼山の西側にある道見山(どうげんやま)に陣取りました。そして一気に攻めるのではなく、波状攻撃を仕掛けて順次勢力を削(そ)ぐ作戦をとりました。小早川軍がわざと少人数で攻撃すると、日積軍が茶臼山から攻め下ります。そうした攻防を幾度も繰り返し、結局は川を挟んだ激戦になりました。そうなると巧者の小早川軍が優位です。双方にかなりの戦死者があったようで、茶臼山にも道見山(どうげんやま)にも首塚が作られて今も残っています。
合戦の状況を伝える伝承も地元には残っています。茶臼山の陣営から牛の角(つの)に松明(たいまつ)をくくり付けて小早川軍に向けて突進させたとの話です。その類(たぐい)の話は各地にあり、信ずるに足りません。ただ具体像は分からずとも、日積の兵が必死に防戦した状況は窺(うかが)い知れます。結果は日積軍にとって無残な敗北となりました。若杉川が血で赤く染まったとの伝承は、確かと思えます。
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