■毛利軍の防長侵攻(3)・伊陸高山寺城の落城
市教育委員会社会教育指導員 松島幸夫
2回にわたり毛利軍が防長地域へ進軍する様子を紹介しました。今回は伊陸高山寺(こうざんじ)城落城の様子を見ていきましょう。
日積村を平定した小早川軍はさらに由宇川を遡(さかのぼ)って、伊陸※1へと兵を進めました。標的は高山寺城です。高山寺城は氷室岳の南斜面の中腹に位置する山の頂に築かれていました。周防国の安国寺(あんこくじ)※2である高山寺の後方にあることから、高山寺城と呼ばれていました。城主は町野(まちの)隆治(たかはる)です。大内(おおうち)義隆(よしたか)の忠実な家臣でしたが、義隆が自刃した後は陶晴賢(すえはるかた)を主君として仕えました。弘治(こうじ)元(1555)年の厳島合戦では、勇躍して厳島に渡りますが討死してしまいます。したがって小早川軍が伊陸へ侵攻したときに町野隆治はすでに亡く、主力部隊は全滅していました。城の留守を預かっていたのは老年の武者数十人と女性や幼子たちです。誰の目にも町野残党の敗北は明らかでした。武勇に長(た)けた小早川軍は、総勢700人余りの大軍です。小早川(こばやかわ)隆景(たかかげ)は使者を遣(つか)わして降伏を勧めます。「勝負はすでに決している。城を明け渡せ!城主の町野隆治はすでに厳島で討たれており、お前たちは誰のために城を守るのか。命を無駄にするな」と伝令したのです。ところが「我々は敗北を覚悟しての籠城である。命は惜しくない」と一蹴され、使者は追い返されました。やむなく小早川軍は高山寺城に攻め上って、一気に落城に追い込みました。しかし残らず討殺したのではなく、17人を生け捕りにしました。17人を集落へ引きずり下ろし、村民全員を集めて目の前で磔(はりつけ)にしたのです。槍の一突きで絶命させるのではなく、残酷にも急所をはずしながら幾度も突き、苦しむ姿を見せました。抵抗すると悲惨な結果になると村人の脳裏に刻み込ませたのです。
※1当時の文書には伊賀道や伊賀路と表記されていた。
※2足利氏が戦死者を弔うため国ごとに建てた寺。
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