酒田の不玉の著に「継尾集」というものがあります。序文は羽黒の呂丸が書いており、当時の庄内の俳風を知る書です。それによると元禄5年(1692年)、獅子庵各務支考(かがみしこう)が酒田、羽黒、象潟にも訪れていたことがわかり、それに未覚も二句入集(にっしゅう)しています。
宝永7年(1710年)、巣雲窟呂笳(旧羽黒町芳賀の住人)選の「三山雅集」に
御宝前涙になりぬ坂の汗
一句が入集しており、未覚の晩年も句作の勢いは衰えを見せませんでした。
また、一子(いっし)豊武も句作を試みる年ごろに成長して、宝永6年(1709年)、父未覚や大谷の風和らの選になる「梅の露三六句歌仙」に入集し、また、正徳3年(1713年)未覚、風和の編んだ「把管(たばねくだ)」に父と子で20句が載せられているほどに進歩しました。
未覚は、左沢に移った後、松山藩主酒井忠預に従って松山に転居、享保元年(1716年)7月8日、典医として79歳の生涯をここで終えています。
惜しむらくは、長崎に住み、新貝忠清の未亡人と結婚したころの資料が乏しいことです。折々の俳諧がどのような人々と催されたがわかりませんが、数人の弟子はあったようです。
元禄2年(1689年)6月9日、三山詣を終えた松尾芭蕉を囲む、鶴岡の永山重行家の送別句会には、不玉、曽良、呂丸、重行に未覚が加わっている(「鶴岡市史」より)ことを見ると、左沢から庄内に移っても、医業の傍らで旺盛な句作を続けていたのであろうと想像できます。
■用語の説明
不玉:庄内藩のお抱え医師、伊東玄順の俳号。
呂丸:近藤佐吉の俳号。庄内藩の藩士の出といわれ、後に旧羽黒町に居を構えた。
各務支考:江戸時代前期の俳諧師。
※引用…中山町史中巻第10章第3節文芸と美術工芸から
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