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中山町歴史散策 第192話俳諧(5)松田未覚のことその2

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山形県中山町

松田未覚がなぜ長崎の医家である新貝家に出入りするようになったのかはわかりませんが、新貝家の家督に未覚より4歳年下の忠清がおり、新貝家が最新の医術を忠清に伝授してほしかったことがひとつ考えられます。また、山形で地理不案内の若い医師の開業が難しかったのかもしれません。後に、忠清が28歳の若さで亡くなりますが、それは未覚が32歳の時で、寛文11年(1671年)のことでした。その4年後、未覚は忠清の未亡人と結婚し、豊武をもうけ、大江町左沢に移っています。
新貝家では、忠清の弟である四郎右衛門に家督を継がせていますので、この弟への医術の指南に4年を費やしたのだとも考えられます。未覚が左沢に移ったのは恐らく37歳の頃です。
江戸で医術を学びながらも、今大路の門下生にも俳諧に親しんでいた者もあったであろうことから、未覚が江戸俳諧の新しい息吹を身に付けて山形へ下ったと想像されますので、当然、この地において俳句の結社が生まれ、そして指導的立場に立つと、弟子の数が増えていったものと見られます。

▽用語の説明
家督:家を継ぐべき子。嫡子。惣領。あととり。
今大路:今大路道三玄鑑のこと。未覚の医術の師。

※中山町史
中巻「第10章第3節文芸と美術工芸」から

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