天保時代は、相次いで冷害被害に見舞われて、文芸に親しむ余裕などあろう筈もないのに、各地に俳人が育ち、盛んに句会が催されています。作句の風も、発句を中心に、七七の下句を添えない5・7・5字の作りやすい形が定着したことも、一層大衆に親しまれた理由であると考えられます。
天保6年(1835年)、この年、俳諧出句を手書きで示すほか、木版摺ものが普及し、広く俳人の作品が頒布され、埋もれた俳人が一斉に日の目をみることになりました。すなわち、俳諧の常連には、二川(寒河江)、臣英(長崎)、二丘(漆山)、稲州(吉川)、吟霞(楯岡)、川丈(山寺)、石蘭亭楓二(谷地槙風二)、宥勝(慈恩寺淋山)、岩月、野泉、宜隙、松月(長崎)らの名が台頭し、多くの句会に登場してくるようになります。
こうした俳人の句は、さまざまな句集に入集され、全国的な交流の中で、天保14年(1843年)には、吉川稲州に京都二条家御連中の免許御朱印状が贈られ、弘化2年(1845年)、長崎の秋葉弥右衛門に「岩月」の俳号と蕉風伝授血脈が贈られています(長崎秋葉富貴子氏蔵)。
天保15年(1844年)、牛頭天王俳額奉納句会では、広く近隣の俳人から句を募っているが、7人の女性俳人が加わっています。大方は、商家の主婦であろうか、紅花を詠んだ句が多いことも、長崎という土地柄を思わせます。既に女性の間にも句作が行われた証左で、長崎界隈若しくは長崎の句会に集まった女流俳人は次のとおりです。
長崎:三浦女、林女(里ん女)、婦女、千代、さの女、君枝、ひさ女
島:藤女
近郷の俳人には、文章に秀でた人も多く、皿沼の和生、長崎の其松も筆が立ち、天保15年元旦の其松の筆は見事です。
「明立今朝の心嬉しくは津鶴の声にむく起きて、いざと戸を開けは四海の波静かに風ふく和らげ、雪原に風雅の心をよせ、側なる硯を引きよせ、少々筆に戯れた」
ひらく年を先づ吉日とはつ暦 其松
と簡潔ながら、口調もよく田舎俳人ながら文章もなかなかのものです。
※引用
中山町史中巻第10章第3節文芸と美術工芸
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