平成12年に石沢家に残された文書の中から発見された「俳諧発句」なる句書の裏表紙に「天明七未年鈴木蝶宇蔵書」とあるということは、先月号に記載したとおりです。
また、この俳諧写本には序文にも、五竹坊が書いています。年号は、「安永3午ノ夏」とあって、1774年のことであるので、幾人かの手を経て、ほぼ10年後に鈴木蝶宇がこの句書を手にいれたことになります。写し間違いも多く、意味の疎通を欠くところがあって、序文の掲載は控えますが、恐らく出羽国より伊勢参詣の折、美濃の獅子庵に立ち寄った人が受領したものであろうと考えられます。
この鈴木蝶宇という人は、寛政4年(1792年)、白山神社に俳額を奉納した7人の筆頭願主です。この俳額には、地名のみを示した俳人の60句が収められています。残念ながら願主で句を詠まなかったためか、俳額に、作品と蝶宇の名前はありません。いずれにせよ、鈴木蝶宇も金沢界隈では名の知られた人物であったでしょうし、どのような理由で石沢家に渡ったのか、幕末の長崎の俳諧事情を語る資料となるものです。
さて、これまで15回にもわたって俳諧を中心に話を進めてきましたが、次号からは俳額をテーマにしてまいります。
■語句の説明
五竹坊:田中五竹坊のこと。元禄13年生まれ。医業のかたわら、美濃派の仙石蘆元坊に俳諧を学び、獅子門4代を継ぐ。安永の頃に門下の安田以哉坊(いさいぼう)と対立し、美濃派は分裂した。
願主:善根功徳を積もうという願いで、仏像や仏寺を建立したり、経典や法衣の供養などを発願した本人のこと。
俳額:発起人が広く投句を呼びかけ、選者が選んで数十句を板に並べて書いたもの。神社などに奉納される。
※引用
中山町史中巻第10章第3節文芸と美術工芸
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