服部家に残されているこの俳句手帳には、作者の地名を肩書にした名前があることから、それから若干拾ってみますと、意外に広範囲な俳人の存在を知ることができます。すなわち
長崎村の稲涛、扇和、一勢、其松、松園、道昌、竹水、一哥、由史、二陸、左十、皿沼村の和生、島村の極花、林女、俄流、和風、巴松、稲沢村の橘円、清十、漆山村の二丘、寒河江村の丹楓、雲母、万古、和柳、宗信、起花、起石、文志、月来、其泉、和水、南窓、自井、月駕、青月、梅一、和光、匡志
などのことです。
これらの俳人は、相互に交流して各地の句会を楽しんだのであろうと想像できます。特に皿沼村の和生、漆山村の二丘(半沢)は句会の常連で、女流俳人の台頭も始まっていたようです。一方、未覚以後、名の売れた者はありませんでしたが、文化・文政期以降、長崎の岩月、野泉は中央俳壇に知られるようになります。
■岩谷十八夜観音俳額
岩谷十八夜観音俳額は、嘉永4年(1851年)に奉納されたもので、本殿東側堂宇内に掲げられています。長さおよそ2メートル、幅50センチメートルほどで、下地は金箔を散布した台紙に、白地の用紙があって、48句が記されています。
この俳額にある俳号のうち、著名な俳人も多く含み、野泉は上町の秋葉弥次右衛門、細道庵と号し、同じく上町の三代目秋葉弥右衛門は流霞亭岩月と号した村の百姓代でありました。二丘は漆山の半沢二丘で大地主、緑峰は谷地の槙緑峰で、槙清左衛門家の出身、安政4年(1857年)以降は「五鳳」と名乗った俳人です。吟霞は楯岡の俳人で、水竹と共に各地の俳額に名を残した富裕者俳人で、多くの句会に加わっています。
なお、岩月、野泉と共に、文新田の服部文右衛門こと武陵、その子旭峰も有名で、各地の句会では挿絵を揮毫、嘉永6年(1853年)に刊行された「海内俳家人名録」(上町秋葉弥右衛門家文書)にも所蔵された全国に名の知れた俳人です。
■用語の説明
堂宇:四方に張り出した屋根(軒)を持つ建物。
※引用
中山町史中巻第10章第3節文芸と美術工芸
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