文字サイズ
自治体の皆さまへ

新庄開府400年の歴史に学ぶ

6/16

山形県新庄市

~郷土への愛着と誇りを高め新たなまちづくりへ~
第2回 藩政の礎を築く

大名の取りつぶし政策が強力に進められた江戸時代初期において、家の安泰を図るために、江戸幕府徳川家の忠臣であった鳥居氏との結び付きを強めた羽州新庄藩戸沢氏。11代続いた藩政の礎はその後どのように築かれたのでしょうか。今回は、現在のまちづくりの基礎となった新庄城の築城と、城下町整備の歴史について学びます。

■新庄領を賜り、藩政の象徴「城」を築く
元和8(1622)年、新庄藩祖・戸沢政盛は、江戸幕府の命により常陸国(ひたちのくに)(茨城県)松岡から羽州新庄藩(石高6万石、最上地方一帯と村山郡の一部)に領地を移されます。これは、出羽国(でわのくに)(山形県と秋田県の範囲)中央部の山形周辺を領地としていた最上氏が、藩内の主導権争いにより幕府から領地を没収されたことを受けて、徳川家第一の忠臣である、鳥居氏(山形城22万石)や酒井氏(鶴岡城14万石)などと並び、未だ幕府に心服していない奥羽の諸大名の監視やけん制の役目を負ったためと考えられます。
政盛は従来より、最上家の武将である日野氏が居を構えていた新庄城を、将来的な本拠と定めていました。しかし、当時の城は6万石であり、大名の居城としては小規模であったため、現在の戸澤神社周辺に新たな土地を区画して、これを本丸としました。さらに、その周りに土塁と堀を巡らし、3つの隅には二層の隅櫓(やぐら)を、本丸中央部には三層の天守閣を設けました。なお、この天守閣は寛永13(1636)年の火災で焼失してしまいました。
また、現在の最上公園近辺に、本丸を取り囲む形で、二の丸・三の丸を区画し、侍町として家臣団を居住させました。

■城下町を整備し、城下の繁栄を期す
城下町(町人町)の建設においては、鳥越村から萩野村・仁田山村を通り、金山へと続いていた羽州街道を、鳥越村北端から西に延長しました。さらに、新庄城を東から北へと取り囲む形で延長し、この両側に町人町を区画。金沢町・鉄砲町・落合町・馬喰町・五日町(後の南本町)・十日町(後の北本町)などがこれに当たります。特に、五日町・十日町は城下随一の繁華街であり、有力御用商人が軒を並べていました。
羽州街道をはじめ、市中の道路は至るところで鉤(かぎ)形に曲折されています。その隅々の要所には、寺院・神社・修験などを配置して、万が一の場合の防衛拠点としました。特に、羽州街道の南北の出入口には足軽町を区画。上金沢の円応寺・接引寺・松巖寺(しょうがんじ)、太田の瑞雲院・会林寺・英照院といった寺院を集中的に配置し、敵の進攻に対する備えとしました。
また、城下を見下ろす四方の丘の上には、城下の災いを鎮めるため、山屋の薬師堂や下西山の愛宕社、鳥越山の八幡宮などの寺院・神社が配置されました。
こうしてみると、政盛の城下町建設構想は、かなり壮大であったことがうかがえます。―次回に続く

出典:シリーズ藩物語「新庄藩」大友義助著

詳しくは、歴史センターへ。
【電話】22-2188

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU