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第8回 凶作・飢饉(ききん)の頻発II
江戸幕府の成立後、家の安泰を図るため、江戸幕府徳川家の忠臣たちとの結び付きを強めた羽州新庄藩戸沢家。11代続いた藩政後期、多数の餓死者を出すほどの深刻な凶作・飢饉が再三にわたり領内を襲います。今回は江戸時代中・後期に発生した、天明・天保の両飢饉による当時の惨状と、それに相対した藩政の姿を見ていきます。
■天明の飢饉
宝暦の飢饉から約30年後の1783(天明3)年に、大飢饉が再び新庄藩を襲います。その年は例年にない天候不順に加え、6月末(旧暦。以下同じ)に浅間山が噴火し、その火山灰が最上地方まで降り注いだことで田畑が害され、大凶作となりました。
これにより、年貢の収納高は例年に比べて半減し、藩の財政も極度に悪化しました。藩士への俸給は宝暦の飢饉の時と同じく制限され、一定量の飯米(はんまい)を給付する「飯米計(ばかり)」が決定されました。
この時の藩主の公言では、「もはや御用商人からの借金もできなくなり、このような非常の措置を取らざるを得なくなった。何とかやりくりをして、来秋まで我慢してほしい。それが何よりの忠義である。」と述べられています。
また、度重なる凶作・飢饉により土地を失った農民の中には、有力町人の小作人になる人や、村を捨てて他所に流れる人もいました。農民の離村を禁ずる御触書(おふれがき)が多くなるのもこの頃からでした。
■天保の飢饉
江戸時代後期の1833(天保4)年には、「天下の口を干す」とまで言われた、天保の飢饉が襲来しました。南山村(現・大蔵村)の庄屋、柿崎弥左衛門(やさえもん)が記した「天保年中巳荒子孫伝(てんぽうねんちゅうしこうしそんでん)」に、当時の惨状が詳しく記録されています。
伝記によるとこの年は冬が早く、8月には降雪がありました。飯米もたちまち底をつき、松の皮で作った餅や雑草を食べる人もいました。冬にはさらに深刻となり、弥左衛門は私費を投じて、病人の介抱をしたそうです。4月には、9代藩主正胤(まさつぐ)が幕府の許しを得て、江戸から急ぎ帰国し、領内を巡回しました。この凶作・飢饉により、死者はもちろん、一家離散や他所へ流れる人が多く、人口の減少は藩の支配体制に大きな影響を与えました。
これらの状況は、1835(天保6)年の秋の豊作により、ようやく落ち着きを取り戻しました。高騰していた米価は下がり、村々は徐々に平穏を取り戻しました。しかし、天保の飢饉は新庄藩政に決定的な打撃を与えました。郷村の衰退は回復することなく、やがて明治の新時代を迎えることとなります。
・天保年中巳荒子孫伝
(新庄ふるさと歴史センター所蔵)
旧南山村(現大蔵村)の庄屋、柿崎弥左衛門が記した飢饉の記録。天保の飢饉や当時の米の価格などが細かく記されています。
―次回に続く
出典:シリーズ藩物語「新庄藩」大友義助著
詳しくは、歴史センターへ。
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