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わたしと金山 No15

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山形県金山町

林寛治(かんじ)

■金山小学校新校舎設計着手に至るまで
当時2期目の岸宏一町長から小学校校舎新築の打診があったのは、私が保育園増改築工事を設計している最中でした。岸英一前町長に相談してとのことと聞きました。英一前町長曰く、最上郡内市町村は、先を争って鉄筋コンクリート造の「本建築」を10年ほど前から建て続けてきたが、郡内の施工業者が大手の下請けだとしても技術的に未熟と見て、金山では建設を今まで抑えてきた(例外として町民には中央公民館が必要であり、大手建設と経験ある庄内の設計者に委託した)。しかし「機は熟してきた」と思う。との由でした。私は太平洋戦争末期の昭和19(1944)年8月に東京から疎開して金山国民学校2年に転校しましたが、校舎は直前の1月に高等科と体育館を残して焼失してしていました。このときの様子は本連載の1回目に書きました。
3代目校舎は2代目の平面に倣った建物でした。米軍占領時期下に時の町長をはじめとする有力者が資金と資材を出し合い、町内の棟梁たちが参加して建てたものです。これは都市部以外で戦火を受けた全国各地の状況でもあり、同時に明治・大正以来、連綿と続いてきた「地産地消と自立」の体現でもあったのです。この3代目の校舎が再建されてから30年近く経ていました。
岸宏一町長から与えられた条件は、仮設校舎は準備しないことと、既存校舎で門から手前の2教室分くらいは切っても良いが、その範囲内で納めることでした。大山教育長からは県を通じての郵政省からの補助金による計画なので山形県建築条例に従うこと、そして並列教室にすることを求められました。当時小中学校のプロジェクトは全国花盛りで、楽しげなオープン教室などが建築雑誌を飾っていましたが、実験的設計はダメと念を押されたわけです。
次なる難題は建物基礎についてです。地質調査の結果、支持地盤の深さは手前側で6m~8m、楯山に近付くにつれ広範囲に36m~40mであることが判明しました。これまでの軽量な木造では問題とされてこなかったことですが、その昔、小学校が建てられる以前の楯山の麓は沼だったのです。結果として直径400mmのコンクリート杭を36m(12+12+12)×6本、30m(10+10+10)×70本+αが本建築・校舎の壁柱を支えることになりました。
衝撃音から今では許されない杭の打設工事は、打ち継ぎを含めて工期もかかりますし、申請年度内完成を守ることからも、夏休み中に終えなければなりませんでした。従って設計工事監理上の工程打ち合わせも綿密に行うことが求められました。金山町保育園増改築工事の仕上げ工事が始まる時期に金山小学校校舎の建築確認を得る段取りだったと思いますが、教育委員会次長の星川廣さんが建設事務所から県までの町側事務手続きを細やかに勤めてくれたおかげで、設計に集中することができました。また、弟・隆三の中学同級生だった、天野郁生君が藝大建築の後輩で我が家の近くに住んでいたこともあり、めばえ幼稚園以来、金山町立病院完成まで設計に協力してくれたので、大いに助かりました。
構造設計は、めばえ幼稚園以来のつきあいで、剛設計事務所の高橋氏に委託しました。当時の剛事務所は東京で活動しており、打合せは東京で行っていましたが、剛事務所は山形の本間事務所の構造もほとんど担当していたことから山形との往復も密であり、金山での配筋検査にも足を伸ばしてもらうことができました。なにより高橋氏は豪雪地の大石田出身で、積雪荷重の扱いに関して心強い存在でした。

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