林 寛治(かんじ)
■「一十の家」について
「一十の家」が解体撤去されるとの知らせを、間接的に知りました。敷地・家屋の不動産所有権は2月中に金山町に移されたと聞きましたが、この家は役場に隣接している立地でもあり「街並み形成評価の一要素という街並みづくりの公事」にも関わるものなので、役場庁舎の話の時系列からはずれますが無に帰す前にこの家について少しお話しいたします。
「イチジュウ」の旧宅は、5代前にイチヤマ岸家から分家した1887(明治20)年頃に建てられました。七日町通りから内町まで酒樽蔵、麹室(ムロ)、精米所などが奥まで並んだ、いわば酒・味噌の工場建築に住居が付随した建物で、囲炉裏のある土間に面した居間は帳場と呼ばれていました。居室部は延べ面積の一割にも満たず、後年仏間吹抜け部の上部に増築した客間以外はすべて北向きで、日照がほとんど無い建物でした。トイレは入口から30mほど離れた土間奥の裏手にあり、小学生だった私や従姉妹たちは、夜は怖くて行けませんでした。その後昭和の終わりまで百年近く住み使われた家でしたが、今の役場庁舎新築後から7、8年間は、間近に見えていました。
故岸宏一、元町長夫妻から専用住宅設計依頼の相談を受けたのは1983年頃でした。与条件は自然落雪と必要部屋数および厳しい設計監理についてのみ。工事請負は小・中学校からの同級生である高橋新君に任せる、ということでした。
「七日町通りに面した位置では自然落雪が難しいこと、さらに旧農協の蔵を改造した新庄信金と役場新庁舎の間に挟まった一住宅を規模的に街並み形成に調和させることは非常に難儀であること」から、裏の内町側大堰に接して木小屋のあった離れの位置に建てるべきだろうと私見を述べましたが、宏一君としては、イチヤマ本家から頂いた敷地だから、離れてはいけないという信念が有ったのです。
新しい「一十の家」の間取りは旧宅の陽当りの悪さを除く明るい家を計画しました。畳敷の8畳仏間を除いて全居室の日照と通風を確保して、木製二重サッシガラス戸+障子で断熱性を高め、トイレは各室から6m以内の距離に配されるコンパクトプランにしたのです。屋根雪の落雪量を抑える効果もありました。金山小学校と同様に各室FF暖房機としたのですが、居間の暖房1台で全体が十分温まるとのことで、他室は無駄だとのお叱りを受けたこともありました。宏一君は工事進行・精度に私が口を出すことを許さず、棟梁・設備業者との工事段取り差配がうまく回らず、苦労しました。
旧宅前蔵の基礎石を活用したいという要望が工事行中に出て、院内石と同様の水成岩で外部には使えず、居間の東北隅に暖炉を設けるべく敷きこみましたが、暖炉設置は見送りになりました。余った石材は使いようが無く、宏一君と相談の上、凍結凍害で爆裂することを前提に実験的に斜路に置いてみましたが、予想の3倍15年くらいは維持されたようです。
後日談としてある時、正直者の高橋新棟梁が「一十の家で重加算税○○万円とられたヤー!」と私に嬉しそうに語ったのを思い出して可笑しくなります。宏一君はいくら払ったかを私には絶対に明かしませんでした。設計者が総工費を知らないというわけです。
外部のデッキや手摺は手入れ補修が叶わず朽廃状況ですが、内部全体構造は傷みが無いので、どこかに木造部分を解体・移動・再構築出来れば、外部に対して金山町街並みづくり行政の文化名声度を高めることに寄与するとおもいます。植栽もただ伐採するのではなく、まずは町内で環境保全に詳しい人に相談して移植なりするべきでしょう。また十日間ほど町民の皆さんに開放見学していただくのも日本初の情報公開条例を公布した故宏一町長の意思に沿うものと思います。
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