林 寛治(かんじ)
■金山町役場庁舎(4) 町民ホールの設置と活用
町民ホールは役場庁舎の設計与条件に示されなかったので、地方自治の行政事務所としての位置づけのみではなく、町民が集まって交流行う空間が必要ではないかと私から町議会に提案・説明を致しました。5年~10年以前、既に竣工していた県内小自治体庁舎は町・村議会、議場に力点が置かれ、町民交流を目的とした町・村民ホールが設けられた役場庁舎は見当たりませんでした。
竣工当時役場職員の皆さんはこのホールをどのように使うのか大分戸惑ったようです。打合せで金山に出張時、休憩時間にこのホールでピンポンを楽しんでいたので驚きました。年を経て今や会議・講演会等、多くの催事に活用されている。特に椅子・机等の移動家具配置・組み合わせに変化を持たせて運営されており、空間活用の独自性を見て取れます。
私のイメージの中では、毎年広報誌上に掲載される消防や福祉関係等の表彰式などの儀典催事に全授彰者の家族も参加して出前の弁当で祝し合う場面があっても良いかなと想像します。
本庁舎は蔵史館の15年前、マルコの蔵の34年前の昭和55年竣工ですから、町に展示施設が未整備だったことから外部に面した三方に木製ベンチを造り付けにして、その上部にピクチャーレールを埋め込み町民の絵画展や写真展などに活用されれば良いと、町議会と役場関係者に説明しました。しかし、現在まで催事との兼合いや、展示、取り外し等の手間がかかることもあってか、あまり展示壁の活用はなされていないようです。輪番制で、各集落の出来事を展示するなど、小学生から大人まで、町民同志の特徴を示し合うのも連帯感が一層深まると思います。
町民ホールの象徴として三方の上部大壁に壁画の製作設置を岸宏一町長に提案しました。藝大時代からの同期の畏友・村松秀太郎氏が創画会で活躍していたこともあり、10+12+10m=延32mw×2.6mhの大作を描けるであろうと確信があったからです。藝大専攻科・終了後画業に専念していることもあり私のイタリアからの帰国前にローマに誘い、テントを積んで北欧フィンランド往復の4か月の車旅の3分の2を交互運転で同行してもらいました。イタリア・フランス・ドイツ・デンマーク・スウェーデン・ノールウェー・オランダ再び帰路と壁画のある市庁舎や建築・絵画の実感を共有した訳です。また彼の出身地、静岡・清水港の庁舎に陶製大壁画を納めたか?も聞いていました。壁画提案について宏一町長の回答は、町議会とも話して「町から壁面は提供するが、壁画についての費用は、提案者の林の責任で行うこと」であり結果として私が全額負担することとされました。役場庁舎現場が進行中でもあり、一瞬棒立ち!!という感でしたが、40代半ばに掛かる頃の若造故に思考停止になっては居られませんでした。
壁画のテーマは、村松氏の提案で全農家の力である馬と近接した軍馬生産地から「団結・調和・力」と題して雄々しい馬と人間との共生を表すことにしました。壁画の企画とテーマについては、長老の岸英一元町長にもご意見をうかがいましたが、町民がその意気と真意を理解するかはわからないぞ!ということでした。庁舎竣工の一年後昭和56年に壁画が納められ、町が町民ホールで画家・村松秀太郎を囲んだ壁画完成の祝賀会を催してくれました。会なかばの片隅で岸英一氏が私に「村松氏のこの作品は町に励みと勇気を与えてくれるだろう、お前は本当に良いことをしてくれた!」と、ささやいてくれました。この一言に、感激の涙がとまりませんでした。英一氏、宏一君、村松画伯、今は共に故人となりました。
村松画伯は、壁画制作に際して、藝大、武蔵野美大、多摩美大出の後輩画家たちを交互に総動員して二年近く制作に当たりました、その間幾度となく、馬の廐舎や運動場に出向き動態スケッチを重ねました。後輩画家たちの幾人かは美大教授と美術館館長になって活躍していますが、村松氏自身も筑波大学教授、大阪藝大教授を歴任して亡くなりました。壁画に使用された越前和紙は人間国宝・8代目岩野市兵衛が漉いた9尺×7尺の今日でも日本最大の貴重な手漉き和紙です。時を経て日本画の場合も、手入れ補修が必要となります。町民の街並み景観保存と共に、芸術作品保存も金山町の格調を高める力です。金山町から美術・文化にも明るい人材が生まれることを期待します。
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