林 寛治(かんじ)
■金山診療所(旧金山町立病院)(1)前書き
金山に疎開していたころ、金山診療所は「避病院」と呼ばれる感染症を対象とした隔離病院だったようで、山﨑裏と呼ばれた現在地に近い環境良い林の中にあったと記憶しています。5歳から学生時代まで季節の変わり目ごとに喘息発作で苦しめられましたが、金山では、金山診療所ではなく、嶋先生と桜本先生に発作の都度お世話になりました。
戦後再建された木造の町立病院は、1、2階の間を傾斜路(ランプ)で上下するなかなかハイカラな建物でした。しかし、街なかの嶋医院と桜本医院の閉業により、町立病院のみでは町全体の緊急時の医療体制が心もとなく、優秀な若手医師の常時の受け入れ環境にも到っていないという危惧が全町民と自治体双方の共通認識になっていました。
近年ようやく新庄県立病院が新改築されましたが、1980年当時から新庄県立病院はいつも入院者満床状態で、周辺町村からの救急患者受け入れ困難が続いていました。救急車で新庄まで急いでも、断られたりたらい回しされた挙げ句手遅れになった、という話を多くの方々から聞きました。
公共施設を更新する順序としては、まず教育施設・福利厚生施設にはじまり、自治体庁舎は最後の方に行うのが当時も一般的な認識でしたから、病院の新改築に先立って役場庁舎を改築することに、町長と町議会はかなり悩まれたと聞きました。しかし、朽廃危険度からやむを得ず庁舎改築先行を決定し、庁舎竣工後に間髪入れずに病院新改築に踏み切ったのです。
岸宏一町長は、救急患者収容可能な病院であること、老齢・長期入院可能なこと、そして病院として認可される最低病床規模50床の病室とすることを示されました。また、めばえ幼稚園誘致と金山保育園改築時と同様に、町立病院新改築でも金山町内子女の資格職能を得るための環境整備となることを意識することを強調されました。
町長自ら東京の友人たちを通じて適正規模のモデルとなる病院を探していたらしく、その指示で1980年秋頃に、坂本事務長と二人して赤坂見附の有名な「MA病院」見学に行きました。紹介者が良かったのか、見学者が稀だったのかはわかりませんが、病院事務長が気さくに案内してくれました。
MA病院は外堀に面して敷地に合わせた直角三角形平面の9階建てで、直角三角形平面の中心部にはナースセンターと関係諸室が、診察・執務室と上部病床階の病室は原則外周に面していて、三方への視線と動線が短略化されていました。絨毯敷の廊下は暗めの人工光で看護師は廊下を歩きながら無線での指示連絡を受けているとのことで、いわば高級ホテル的な病院という印象で、コンパクトで合理的な面と高品質のしつらえが病院の格調を示していました。
「特別病室をお見せします」と言われて、固辞したのですが、勧められるまま恐る恐る入室したところ。暗幕カーテンで暗く閉じられた奥のベッドに毛布を被るようにした入院患者と脇の椅子に座った小柄の女性がキイっと睨むように振り向いたのです。
慌てて退出しましたが、事務長さんが「直ぐに文句を言ってくるから…今のは、偉大な歌手とその母親なんだよ」と申されたので驚きました。「旧金山町立病院」の構想に着手する前の第一歩となるエピソードです。
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