林 寛治(かんじ)
■蔵史館
雄勝金山線と十日町通りの交わる角地に旧金山商工会事務所がありましたが、1990年代に入って雄勝金山線の道路再整備の都合で商工会事務所の後継移転先がもとめられていました。一方町側でも街並みづくり関係の資料館を検討中であったことから、通称十日町通り(旧羽州街道)に面した2軒手前のマルイ家の土蔵が候補となりました。明治30年代に建てられた二対の土蔵の、前蔵は味噌・醤油・酒などの食品と建物補修のための木材などをしまう生活の雑倉庫として、後蔵は戦争直後まで米蔵として使用され、十日町通りを隔ててマルイの岸家主屋と向かい合って残されていました。これら2棟の土蔵を街並み景観に欠かすことのできない財産として、マルイの岸伊和男氏にお願いして快諾を得、町が買い取って「街並みづくり資料館」として再生することになったのです。とはいえ「街並みづくり資料館」という漠然とした展示室では箱物の静態保存になりかねないという危惧もありましたから、前蔵を金山商工会事務所に使用し、後蔵を展示・講演・演奏会など多目的の小ホールとして活用する目的で計画が進められました。「蔵史館」という洒落たネーミングになったことは竣工後に町から聞きました。
町から相談されて蔵史館の設計は金山町教職員住宅と金山町老人福祉センターを設計した、私の大学同期10人の一人、畏友の林哲也君との協同で行いました。
旧態は前蔵・後蔵共に部分的に中2階をもつ天井の高い平屋空間でしたが、長年の豪雪や降雨によって院内石を用いた基礎の不同沈下が進み、その上のケヤキ・クリの柱材が土台の朽廃でさらに沈下して、根継ぎが全面に行われており、かなり傷んだ状態にありました。新たに前蔵の1階に事務所、そして2階を会議室とするなど機能上の必要から、街並み景観に調和する範囲で前蔵の基礎の笠上げを行い、建物高さを1m高くしました。十日町通りから裏の旧道まで通り抜けができる畑であった外構部は、5~6台の駐車スペースを確保するため、蔵の平面位置も若干移動しています。
ヨーロッパの都市や集落では歴史的中心市街地区の伝統建築を保存再生することが当然のことですから、歴史的、伝統的外観を厳格に維持しながらも、内部は個人の意思で現代の生活に適合するようにある程度自由な改造が可能です。公共施設をも含め、モダンで洗練されたインテリアをもつ建築が数々見られます。
しかし静かな山間の町としての金山町の場合は、「町の先達がつくり上げたささやかな遺産を素朴に再生しても新たに機能するのだ」ということを改めて発信することを目的とし、内部については金山杉を質・量共に多用して、落ち着きと暖かさを与えています。また既存の立派な漆喰塗り土蔵窓は残しつつ、(蔵としての)耐火機能のない新たな窓を適宜設けています。約百年前の棟梁が竣工時に見た室内風景は、外に向かって開け放たれた開口部が変わったくらいで、補強金物以外の構造架構は変わっていません。
後蔵は多目的に活用できる交流空間として、婦人会の方々が上手く活用されているのを時折拝見しております。役場庁舎の町民ホールに呼応した、金山らしい自然の趣を意識したホールです。キャットウォークに見せた台を展示の見切りとするとともに何気なく奥行を強調しています。私は残念ながら蔵史館での音楽会に出席する機会がこれまでありませんが、展示の方は妻アメリ―のキルト展で経験しました。日本の古着からつくられたキルトが蔵の材質に良く調和していると感じました。2階の一部は展示空間です。絵画などの展示には壁面が少ないですが、小物の工芸品などが似合うそうです。蔵史館」の益々の発展を祈念します。
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