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帝京科学大学ねこの目報道部ネコノメVol.55

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山梨県上野原市

■4年ぶりの例大祭 牛倉神社の歴史に迫る!

帝京科学大学の学生サークル「ねこの目報道部」は、学生生活や専門分野に関する学内外の情報を発信するフリーマガジン『ネコノメ』を発行しています。
『広報うえのはら版ネコノメ』では、主に地域情報を学生の目線で紹介しています。

みなさんは、4年ぶりに開催された牛倉神社例大祭に参加しましたか?今回はその牛倉神社の歴史について調べました。

牛倉神社の創建は不詳ですが、西暦631年の9月に初めて祭事が行われたとの言い伝えもあり、年代はかなり古いようです。上野原町誌によれば「往古此郷を主宰の神人ウシと称し、倉稟を設けて租税を収めしむ」という口伝があり、これが牛倉神社の名前の由来といわれているそうです。武田信玄の長女黄梅院が北条氏政に輿入れする際、受渡の儀式が行われたのが牛倉神社です。そんな牛倉神社には「天王杜」の愛称もあり、自然災害と疫病蔓延から人々を守るために、疫病を防ぎ、病を治癒してくれるという牛頭天王(ごずてんのう)を祀っていました。
牛頭天王の伝説の起源は朝鮮半島説が有力ですが、定説は確立されておらず、日本独自の神とされることもあります。「牛頭天王と蘇民将来」伝説によると、別名を武塔神(むとうのかみ)といい、須弥山(しゅみせん)の中腹にあった豊饒国の国王・武答天王の息子が牛のような角を持って生まれ、その風貌から牛頭天王と名乗るようになったそうです。
牛頭天王は平安時代から中世にかけて全国に広まり、祀っている場所は祇園と呼ばれました。京都の八坂神社で行われる祇園祭も牛頭天王に由来があります。八王子市の名称も牛頭天王の8人の王子がもとになっています。しかし、近代になると、明治政府の神仏分離政策において「テンノウ」という称号が不敬であるとされ、牛頭天王を祀っていた神社はすべて祭神を須佐之男命に変えるか、もしくは牛頭天王を祭神から除外することを命じられました。そのため、京都の感神院祇園社も八坂神社と名前を改めるようになったのです。牛倉神社も、現在は須佐之男命をはじめとして食物の一切を司る神・牛馬の神である保食神など、五神が合祀されています。
牛頭天王自身が疫病神でもあるそうです。疫病神を信仰すると聞くと意外に思う人もいるとは思いますが、祟りや怒りを鎮め、自分たちの身を守るために信仰の対象となったという、しっかりした理由があるわけです。また、牛は病気平癒や災禍除去、多産豊饒の神の使いであることから、牛頭天王も単に疫病神として祀られたのではないのかもしれません。牛頭天王は祇園精舎の守護神であるともされているため、この説はそれほど間違ってはいないのではないでしょうか。
郡内三大祭りの一つ、牛倉神社例大祭。4年ぶりということもあって帝京科学大学の現役学生にとっては初めての体験でしたが、みんな想像以上の賑わいに驚いていました。
このまま来年以降も、今年のような活気に満ちあふれた牛倉神社例大祭が見られることを楽しみに、また1年間を過ごしたいと感じました。

疾病を防いでくれる牛頭天王のご利益でついにコロナに打ち勝ち、復活をとげた牛倉神社の例大祭。そう考えてみると感慨深いものがあります。神社やお祭りの起源について学んでから参加すると、また少し普段とは違う視点で楽しめますね。
来年の例大祭では、みなさんもほんの少し歴史を思い出してみてください。
(りん たき たかすけ ろく)

この記事の作成には上野原市観光協会前会長の佐藤滿様にご協力をいただきました。ありがとうございました!

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