◆合併した用水路〜朝穂堰(あさほせぎ)の誕生〜
北杜市郷土資料館では、9月28日から市制施行20周年企画展「合併の北杜史〜市政の歩みとくらしの中の〝合併〞〜」を開催中です。ここでは、今年で誕生から20年を迎える北杜市の歩みを振り返るとともに、市町村合併だけではない、身の回りのさまざまな物事の〝合併〞に関する展示を行っています。その中から今回は「堰の合併」について紹介します。
須玉町の江草から明野町を経て、韮崎市穂坂町三ツ沢に至る朝穂堰は、塩川の水を利用し300年以上茅ヶ岳西麓を潤している用水路ですが、当初から朝穂堰と呼ばれていたわけではありません。江戸時代には、江草から明野町栃沢までの上流部が浅尾堰、栃沢から穂坂町三ツ沢までの下流部が穂坂堰と呼ばれていました。浅尾堰が寛永(かんえい)19(1642)年に通水したのち、そこから掘り継いだ最初の穂坂堰(穂坂古堰)が延宝(えんぽう)元(1673)年に通水、穂坂古堰を廃して新たな穂坂堰が享保(きょうほう)3(1718)年に通水しているため、江戸時代半ばに2つの堰が事実上の朝穂堰となっていたのは確かです。ただし、この時点で〝合併〞しているのはあくまで堰の流路だけであり、修繕人足の割り当てなどの維持管理は、村々が浅尾・穂坂の堰ごとに組織する組合単位で行われていました。また、灌漑(かんがい)期に適正な配水や監督を行う幕府の役人も、両堰に1人ずつ派遣されていました。
明治5(1872)年、新政府の「一用水一名称」の方針に沿い、水源を同じくする浅尾・穂坂両堰は正式に合併し、両堰から1字ずつとって「朝穂堰」が誕生しました。それに伴い堰の管理団体も1つとなり、徐々に整備が進められたことにより、浅尾・穂坂両堰は名実ともに朝穂堰として運用されることとなったのです。
ところで、改称に際してなぜ「浅」ではなく「朝」の字を採用したのでしょうか。これは、明治維新の大業を祝して「朝廷」から1字採ったためといわれています。また当時の文書から、朝穂堰は地元の人々による命名ではなく、恐らくは県が命名し村々に通達したものと推測されます。
今回の企画展では、このほかにも身近な場所で起きたさまざまな〝合併〞に関する資料を展示しています。町村合併から20年という節目の年にぜひ足をお運びください。
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