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ほくと歴史めぐり

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山梨県北杜市

◆日本画家 河内雅渓(かわちがけい)

明野町正楽寺出身で、東京美術学校(現東京芸術大学)において日本画家・橋本雅邦(がほう)のもとで学び、明治から大正期に日本画家として活躍した人物に河内雅渓がいます。
雅渓は、日本美術院や二葉会、美術研精会などで活躍し、何度も褒賞を受賞し、明治37年には日本画家を代表し、セントルイス万博にも出展し銀牌を受賞するなど、明治期後半の画壇で活躍しました。
あまり知られていませんが、河内雅渓は作家の川端康成と親交がありました。大正十年の川端の日記には「六月十日心覚えの借金河内雅渓氏二十圓高校三年賄料」と記されています。また『「伊豆の踊子」の装幀その他』というエッセイには、伊豆の旅館で雅渓と一緒になったことが書かれており、その中に「河内さんは私の一高時代の保証人である」とあります。旧制一高は全寮制であり、全員が寄宿舎で暮らしていました。川端が寄宿舎に入るにあたり、雅渓が保証人になっていたようです。日記に書かれていた借金は、寮の賄費の支払いが遅延した川端に代わって保証人である雅渓が支払いを立て替えたものでした。
保証人となったいきさつについては、川端の母方の叔父にあたり、大阪の大地主で衆議院議員も務めた人物である秋岡義一が、雅渓の師である橋本雅邦と懇意にしていたことから雅渓とも面識があり、甥である川端が一高に入るにあたり、保証人を頼んでくれたことがエッセイに綴られています。
借金の記述がされた大正十年は、川端はすでに一高を卒業し、東京帝国大学2年生になっています。川端は1年以上借金を返済していなかったことになります。日記には、川端が雅渓に借金を返済したという記述はありませんが、エッセイには雅渓と川端は囲碁や釣り仲間であったことが書かれており、その後も良好な関係が続いていたことをみると、しっかり借金は返済したのでしょう。
大正期ぐらいからの雅渓の画壇での動向は不明となっていきますが、一方で画商として活動していたことが分かっています。川端は芸術愛好家でもあり、無類のコレクターでもありました。川端との間で売買された記録は今のところ知られていませんが、画商とコレクターという関係もあったのかもしれません。

問合せ:学術課
【電話】42・1375
【FAX】32・6497

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