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ほくと歴史めぐり

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山梨県北杜市

◆柳沢寺(りゅうたくじ)跡の六地蔵幢(ろくじぞうとう)

今から300年程前に、5代将軍徳川綱吉から大きな信頼を得て、大老格として、幕府政治を主導するとともに先祖の地である甲斐国を拝領(はいりょう)した柳沢吉保は、武川町柳沢の地を拠点とした武川衆の一党・柳沢氏の末裔です。
柳沢氏は、甲斐守護・一条時信の六男・青木時光を祖とし、6代目青木安遠(やすとお)の次男信興(のぶおき)が柳沢村に移り、柳沢氏と称したのが始まりとされています。
吉保の祖父・柳沢信俊は、武田勝頼の側近として活躍した武将で、武田家滅亡後は徳川に仕え、家康の関東移封(いほう)の際には、他の多くの武川衆とともに故郷を離れ、武蔵国鉢形領(現在の埼玉県)に移っています。吉保は大老格という要職にあったため、江戸を離れることができず、一度も甲斐国の地を踏むことはありませんでした。本年は、吉保に続き甲斐国を拝領した息子・吉里が、享保(きょうほう)9(1724)年に大和国郡山(こおりやま)(現在の奈良県大和郡山市)に移封して、300年の節目となります。
柳沢家の故郷である武川町柳沢には、残念ながら柳沢家の事績を示す資料はほとんど残っていませんが、柳沢氏が開基したと伝えられる柳沢寺跡の一角に六地蔵石幢(せきとう)があります。石幢は、仏、菩薩を供養するための石造物で、県内では室町時代に盛んに作られました。
柳沢寺跡の石幢は、反花(かえりばな)、請花(うけばな)が彫られた円柱状の幢身(とうしん)(竿)を立て中台(ちゅうだい)を重ね、その上の龕部(がんぶ)には六面の各面に彫りだされた地蔵が納められています。幢身には「明応五丙辰(1496)年三月二日 願主□透謹白」と銘が彫られています。幢身に銘が残されている例は少なく、年代が分かる例としても大変貴重な資料であり、市指定文化財となっています。この石幢が建造された15世紀末は、柳沢氏初代である柳沢信興がこの地を治めていたころであることから、この六地蔵に願主として刻まれた「□透」は信興の出家名とする説もあり、柳沢家の事績を示す重要な資料といえます。

問合せ:学術課
【電話】42・1375
【FAX】32・6497

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