■土屋昌恒と子孫の物語
~家康から赤穂事件(忠臣蔵)まで~
天正10年3月11日、織田、徳川から攻められた武田家は甲州市田野まで追い詰められ、最後の時を迎えます。織田軍の侵攻が1月に始まると数万を誇る武田家の軍勢から離反者が相次ぎ、最後の田野合戦では勝頼に従う武将は徳永村金丸氏出身の土屋昌恒ほか数十人にすぎませんでした(※1)。今月は、最後の忠臣とうたわれた昌恒と子孫の物語です。
▽土屋昌恒(まさつね) 〜徳永出身。武田勝頼と最後を共にした忠臣〜
・一五五六年?(弘治ニ) 徳永村武田家重臣、金丸虎義の五男として誕生
・一五七〇年(永禄一三) 駿河の武将土屋貞綱の養子となる
・一五七五年(天正三) 長篠の戦い。兄昌続、養父土屋貞綱討死
・一五八ニ年(天正十) 三月十一日田野合戦にて武田勝頼とともに討死
「比類なき働き」(『信長公記』)
▽土屋忠直(ただなお) 〜家康に見出され秀忠に仕え、久留里藩主に〜
・一五八ニ年(天正十)三月 駿河国楞厳院(りゅうごんいん)に身を隠す
後に駿河国清見寺(せいけんじ)に身を寄せる
・一五八八年(天正一六)九月 徳川家康、鷹狩で清見寺に立ち寄り、昌恒の遺児を見出す
「尋常の者ならず、何者の子ぞ」(『『徳川実記』)
・一五八八年(天正一六) 徳川家康の側室 阿茶局(あちゃのつぼね)の養子となり、翌年徳川秀忠の近習となる
・一六〇二年(慶長七) 上総国(千葉県)久留里(くるり)藩主となる
▽土屋利直(としなお) 〜久留里藩二代目藩主〜
・一六二一年(元和七) 徳川秀忠の近習に
▽土屋直樹(なおき) 〜改易される~
久留里藩三代目藩主
・一六七九年(延宝七) 狂気を理由に改易
▽土屋逵直(みちなお) 〜討入を提灯で助ける?〜
直樹長男逵直が旗本として存続
隣地に吉良義央(よしひさ)が転居
▽土屋数直(かずなお) 〜土浦藩主に!〜
三代将軍家光の近習に
・一六六五年(寛文五) 老中に抜擢される
・一六六九年(寛文九) 常陸国土浦藩主となる
▽土屋政直(まさなお) 〜老中首座。赤穂事件を裁定〜
・一六九八年(元禄十一) 老中首座。綱吉、家宣、家継、吉宗4代にわたる老中
▽赤穂事件→(浄瑠璃・歌舞伎忠臣蔵)
・一七〇一年(元禄十四) 三月十四日、江戸城松之大廊下で赤穂藩主浅野長矩(あさのながのり)が、高家吉良義央(きらよしひさ)を斬りつける
・一七〇一年(元禄十四) 吉良義央、江戸本所へ屋敷替え。隣地は土屋逵直邸
・一七〇ニ年(元禄十五) 十二月十四日、赤穂浪士討入。土屋逵直は討入を幕府へ報告。儒学者室鳩巣(むろきゅうそう)によれば、逵直は討入を黙認し、提灯を掲げ、塀を超えて来る者は誰でも射落とすとした(『鳩巣小説』)。以後創作された忠臣蔵にこの逸話が取り入れられる
「提灯を掲げ、その下に射手を配置し、もし塀を乗り越えてきた者がいれば射落とします」(『鳩巣小説』)
◆田野合戦から家康との出会い
田野合戦における昌恒は、史料によって異なるものの勝頼を守るため獅子奮迅の働きを見せ、敵方の記録『信長公記』でも「比類なき働き」と称えられています。昌恒は勝頼と命運をともにしましたが、その遺児(のちの忠直)は母とともに昌恒の養父土屋貞綱の菩提寺である駿河国楞厳院に逃れました。その後、曹洞宗の清見寺に身をよせ、仏門の道を歩みます。時を経て天正16年、徳川家康が鷹狩りの途中、清見寺を訪れました。この時、僧となった遺児がお茶を出す姿を見て家康は、「尋常の者ならず、何者の子ぞ」と住持(※2)に問いました。住持から昌恒の子と聞いた家康は、いたく納得し、遺児を引き受け、二代将軍となる秀忠の近習(きんじゅう)として仕えさせました。後に忠直と名乗り、その後、上総国久留里藩2万石の藩主となるなど、大名にまで出世することになります。
忠直の長男利直も二代目久留里藩主となり徳川秀忠の近習となりますが、利直の長男直樹は狂気を理由に久留里藩主を改易されてしまいます。しかし、土屋家の功績から長男逵直は江戸で旗本として存続することとなりました。
一方忠直の次男数直は三代将軍家光の近習となって老中まで登りつめ、寛文9年常陸国土浦藩主、4万5千石の大名となります。その長男政直も出世し、元禄11年には老中首座となり、幕府政治の中枢を担いました。
◆赤穂事件と土屋氏
元禄時代に移り、元禄14年3月14日、江戸城内で浅野長矩が吉良義央を斬りつけた事件、いわゆる元禄赤穂事件が起こります。この時、幕府内で老中を務めていたのが土屋政直でした。その後、赤穂藩は取り潰しとなり、元禄15年12月14日未明、浅野家家臣の赤穂浪士47人による吉良邸討入が起こるのです。吉良は前年屋敷を江戸郊外の本所(現墨田区)に移転していました。その隣に屋敷を構えていたのが旗本土屋逵直でした。逵直は討入を幕府に報告していますが、『鳩巣小説』には、討入を黙認し高提灯を掲げ、屋敷内に入ってくる者は誰であろうと射落すことで、陰ながら浪士を助けたという逸話が見られます。この逸話が史実かは疑問視もされていますが、その後、浄瑠璃や歌舞伎などの創作された「忠臣蔵」に取り入れられ、現代でも映画やドラマで欠くことができない名場面の一つとなっています。土屋昌恒が貫いた武田家への想いが、江戸から現代に繋がる土屋家発展への礎となっています。
※1 南アルプス市を駆けた武田家家臣 その6 ~土屋惣蔵昌恒武田家と命運をともにした武将~(ふるさとメール2016年7月号)を参照。
※2 住持(じゅうじ)は寺の主僧を務めること
イラスト/一部イラストAC
文/イラスト 文化財課
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