■南アルプス市における人と馬の長いつきあい
日本に大陸から馬がもたらされたのは四世紀頃にさかのぼり、山梨県内の遺跡からも同じ頃の馬の骨が発見されています。その後平安時代では、山梨県は名馬の産地として知られていました。人より速く力が強い馬は、人や物の輸送や田畑を耕すなどの農耕、軍事や祭事、娯楽など様々な場面で人の暮らしを助けてきました。南アルプス市では人と馬はどのような関係があったのでしょうか。
市内では古墳時代の終わり頃から、数多くの遺跡で馬の歯や骨が出土しています。とりわけ百々にある百々・上八田遺跡では二百五十軒以上の住居跡とともに平安時代を中心とした馬・牛の骨が約百個体以上発見されており、馬や牛を飼育する「牧(まき)」に関わった集落であると考えられています。高尾の穂見神社には「八田御牧」「天福元年(一二三三年)」と銘が刻まれた「御正体(みしょうたい)」(※1)があり、鎌倉時代にはこの牧が「八田牧」と呼ばれ、御勅使川扇状地上に広がっていたことを伝えています。馬は甲斐源氏ら武士にとって欠かせないものであり、平安時代末、市内に館を構えた甲斐源氏である加賀美遠光やその次男小笠原長清は、ここで生産される馬を基盤の一つとして、鎌倉幕府を支える有力な御家人となって活躍したと考えられています。特に小笠原長清は弓馬の術に優れ、長清以降小笠原家の子孫たちは「流鏑馬」など弓馬儀礼の際に名を連ねる家柄として活躍します。
近世に入ると宿駅制度が整備され、各宿には馬が備えられ荷物を運ぶ手段として用いられていました。特に荊沢宿は駿河と信州を結ぶ交通路の宿として機能し、駿信往還には荷物を運ぶ馬とそれを曳く馬士が数多く行き交っていました。一方安養寺のお地蔵様にまつわる『鼻採地蔵縁起』(※2)には農繁期に人手が足りずに困っていた時に、安養寺のお地蔵様が子供に変身し、代(しろ)かき(※3)を行う馬の鼻採り(誘導)をしてくれたと記されています。この縁起などからも馬が農耕で大切な役割を担っていたことが伺えます。また、江戸時代後期の地誌『甲斐国志』をひもとくと、文化初年頃(一八〇四年頃)山麓地域の芦倉や平岡などの村は他の地域の村と比べ、馬が多く飼育されていたことが分かります。これは農耕とともに山から木材や炭などの物資を輸送するために馬が利用されていたことを示しています。
近代では人を運ぶための乗合馬車「ガタ馬車」やレール上を走る馬車鉄道が出現します。また、洪水が頻発した近代では、日本初の本格的なコンクリート製砂防ダムである芦安堰堤(大正五年着工)建設の際、馬車がセメント等の運搬に使われました。馬が市内の治水・砂防事業の近代化を支えていたと言えるでしょう。様々な場面で活躍する馬を人々は家族のように大切に扱い、毎年2月に行われていた八田山長谷寺の初午祭り(※4)では、馬の健康が祈願されました。
このように人々の暮らしに欠かすことのできなかった馬は戦後、農業の大型機械化や自動車交通の発達によって姿を消していきました。しかし現在でも、塩前にある南アルプス市乗馬センターでは、乗馬などを通じたホースセラピーが行われています。この「癒し」という役割を通して人と馬との新しい絆が結ばれ、これからも関係が続いていくでしょう。
※1 高尾穂見神社の御神体。神像が表現された銅製の鏡。
※2 寛永17年(1640)に十日市場出身の尾張藩士、野呂瀬主税助が安養寺に奉納した巻物。鼻採地蔵のエピソードや十日市の歴史が記されている。
※3 鍬などで土を細かく打ち砕き、肥料を入れ、田に水を入れて柔らかくして田植えが出来るようにすること。
※4 現在では毎年3月18日に初午祭り「お観音さん」が行われ、家内・交通安全や健康、学業成就など様々な祈りが捧げられています。
文 文化財課/写真 個人・文化財課
※詳細は本紙P.14~15をご覧ください。
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