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山中湖村・村史だより vol.7

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山梨県山中湖村

■山中太郎左衛門の子孫 その(1)
山中太郎左衛門の子孫たちが、武田信玄・勝頼の時代にその配下として深沢城の在番を務めたことは広報5月号でお話しました。それでは武田氏が滅んだ後、山中氏はどうなったのでしょうか。「天正壬午(てんしょうじんご)武田諸士起請文」という文書があります。武田勝頼の自刃後の天正10年(1582年)3月、深沢城を燃やし退去した城代駒井右京進(こまいうきょうのしん)が、武田家遺臣をまとめ徳川家康に忠誠を誓わせた記録がこの文書です。その後、駒井右京進は、NHK大河ドラマ「どうする家康」にも登場する榊原康政(さかきばらやすまさ)に仕えます。同じく深沢城を守った小山田弾正(小山田氏の分家、現西桂町に本拠があった)は家康へは仕えず、子の茂誠(しげまさ)の時に信州松代藩の真田信幸(信之)に仕えます。山中太郎左衛門の子孫である山中美濃守介勝は、浪人生活でしたが、子どもの主水介行(もんどすけゆき)が旗本として家康に仕えます。同じく深沢城を守ったとされる忍草の渡辺美濃守は、北条氏に仕えた後に忍草で農民に戻り大門渡辺家として今に続いています。
右の系図は、幕臣の家伝を集めた『寛政重修諸家譜』等に記載されている山中氏関係の記事をもとに作成したものです。これらの記録によれば、山中氏は清和天皇の血を引く源義光の流れで、名門小笠原氏につながる一族と称しています。この系図から言えることは、明応3年(1494年)に戦死し五輪塔の主と推定される山中殿は、山中鹿介(しかのすけ)((注)「我に七難八苦を与え給え」と三日月に祈った山中鹿之助幸盛とは別人)という名前です。また、駿河国光長寺(沼津市)に参詣した山中太郎左衛門は、山中下野守介次、または山中美作守介秀と推定できます。ちなみに太郎左衛門という名前は、山中氏の代々当主が名乗ったと思われます。
また、山中左大夫介行とその子の山中左大夫介重の名前は、家康の一代記である『武徳編年集成』に出てきます。かなりの活躍があったようです。特に、介行は戦力が崩れる時や盛り返す時に功績があったと記るされていますし、家康と豊臣秀吉が戦った小牧・長久手の戦い(天正12年、1584年)で敵の首2つと生け捕り2人を得たと記録されています。更に豊臣秀吉の天下統一最後の戦いである岩手県の九戸の戦い(天正19年、1591年)には家康に従って介行・介重親子で参戦しています。家康は、介行の幾多の功績を認め自らの強い意向で主水介行から左大夫介行に改めさせています。所領も現在の山梨市下神内川(JR山梨市駅の南側)に437石を与えています。
山中氏がいつまで山中湖村にいたかはっきりしません。深沢城在番として武田氏の家来だった天正10年(1582年)までは山中湖村に影響力を持っていましたが、家康が江戸に移った天正18年(1590年)には山中氏も江戸に移り、山中湖村からは離れたと考えていいのではないでしょうか。

9月号では、その後の山中氏についてお話します。

※山中氏系図について詳しくは、本紙またはPDF版24ページを参照してください。

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