■長池の和田殿屋敷について
長池地区には、鎌倉時代の和田義盛の子孫が住んだという伝承があります。また、それが字(あざ)和田という地名になったと伝えられています。和田義盛は、三浦一族の出身(本来、三浦氏を継ぐ宗家筋に当たります)で神奈川県三浦半島の和田に館を持ちました。弓の名手であり武勇で名高く、鎌倉幕府の侍所別当(軍事・警察機関の長)を務めました。単純・愚直ですが鎌倉幕府創設に尽力し、源頼朝からの信頼厚い人物でしたが、頼朝の死後、15年目の建暦3年(1213年)に執権北条義時との対立により5月2日合戦となり、5月3日鎌倉由比ガ浜で敗死します。また、嫡男(ちゃくなん)の和田常盛は、甲斐国に逃げ坂東山波加利(大月市初狩付近)で5月4日に自害しています。どういう経路で鎌倉から大月まで逃げたのか気になります。この戦いでは、和田一族は多く戦死します。義盛には8人の子どもがいたと言われていますが、そのうち、2人は生き残ります。朝夷名(あさいな)(朝比奈)三郎義秀(義盛の三男)は6艘の船で500人を率い安房国(千葉県南部)に逃れ、杉浦義国(義盛の八男)・和田新兵衛入道(朝盛(とももり)、常盛の嫡男)らも各地に逃れています。和田合戦から600年経過した江戸時代の『甲斐国志』には、和田殿屋敷について次のように載っています。「和田殿屋敷長池村長池村の東、湖水の岸より少し登りて平地あり。村人が伝えるには昔この地に隠れ住んだことによる。誰かは分からない。建暦三年五月の一族合戦(和田合戦)に負け、都留郡へ逃れて来たことならば和田氏がひっそりと住んだのかもしれない。」和田家の系図を見れば義盛の子どものほとんどは合戦で亡くなっていますが、孫の消息までは分かりません。この辺りに長池の和田殿屋敷の主のヒントがあるかもしれません。
長池集落の東の小盆地状の地形に字和田があります。この辺りにひっそり住んだという伝承が和田殿屋敷かもしれません。遺物が採取できればと思います。
(参考)『甲斐国志』は、大日本地誌大系『甲斐国志』第二巻 雄山閣 昭和45年3月1日発行 P370
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