1945年8月6日、世界で初めて原爆が広島に投下され、続く9日には長崎にも投下されました。原爆の爆風や熱線、放射線は人々の暮らすまちを襲い、同年12月末までに広島で約14万人、長崎では約7万人もの尊い命が犠牲となりました。また、辛うじて生き延びた人も、心と体に深い傷を負いました。大切な人を失い、火傷などの大きな傷が残ったり、放射線により白血病やがんを発症したりと生涯続く被爆の苦しみを負ったのです。
被爆地である長崎市は、戦争の悲惨さや原爆の恐ろしさ、平和の尊さを語り継ぐため、毎年8月に「青少年ピースフォーラム」を開催しており、今年は、富加町と美濃加茂市の中学校から推薦された8人が、全国から集まった青少年とともに被爆の実相について学びました。
被爆者となった広島や長崎の人々は、憎しみを訴えるのではなく、「世界中の誰にも二度と同じ経験をさせてはならない」と核兵器廃絶を訴え続け、今年10月、日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会はノーベル平和賞を受賞しました。しかし、世界では戦争の惨禍が繰り返され、国際情勢も緊迫した状態が続いています。戦後79年を迎えた今、被爆者の高齢化も進み、彼らの声を直接聞ける機会が減るなか、ピースフォーラムに参加し、被爆者の貴重な生の声を聞いて、どんなことを学び感じたのか紹介します。
■双葉中学校3年
美濃輪麻里(みのわまり)
▽伝える
私は、長崎での2日間の中で何度も繰り返された「長崎を最後の被爆地に」という言葉が一番印象に残っています。1日目の被爆体験講話の松尾さんのお話では、「急な白い光とともに投下された原子爆弾は、見慣れた日常の景色を一瞬にして火の海にし、無差別に大切な人々の尊い命を奪っていった」というお話を聞き、助けたい命を助けることのできないもどかしさと残酷さを感じました。
2日目の平和式典では、「長崎を最後の被爆地に」という言葉に、強く平和を願う気持ちが込められ、会場全体に何度も響き渡りました。この平和への願いを感じ取るたびに自分自身の平和に対する意識の低さを実感し、同じ被害を二度と繰り返してはいけないと改めて強く感じました。
私は、長崎での2日間の体験を無駄にすることなく、「最後の被爆地に」という願いと、起きてしまったこの苦い歴史を忘れられることがないように、少しでも多くの人に伝え続けていきたいです。
■双葉中学校3年
川崎夢生(かわさきむう)
▽Road to Peace~平和への道~
「これが真実か。」と、強く感じた3日間となりました。教科書上の内容は少し控えめに表現されており、現地で見た建物や被爆体験講話は比べものにならないほどにリアルで悲惨なものでした。
まずは建物です。浦上天主堂やその地層が当時の状態で残っていることや、熱線で黒く焦げた壁やズレた柱などから、負の歴史を感じました。
次に被爆体験講話です。お話してくださった松尾さんは当時11歳で実際に見た光景を語ってくださいました。そこから、不安や恐怖がよく伝わってきました。
そこで、私たちは全国各地の参加者と争いや戦争がなぜ起こるのか、その解決方法とは何なのかを意見交換し、試行錯誤しながら考えました。話し合いで出たことは小さなことですが、戦争の恐ろしさを周りの仲間や家族に伝えていこうということでした。これは小中学生でも実践しやすいことです。
だからこそ、私たち学生を含めた国民一人一人ができることをして、戦争の歴史を風化させず、未来へと伝承していくことが大切だと思いました。
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