■「孤高の植物学者」
第三話 涙の別れ
三宅勝義さん(東野)
明治維新の世、岩村藩の殿様も岩村へ戻ることになり、御側(そば)衆である学の父もお供をしました。学の回顧録には「夜中に碓井(うすい)峠を逃げるように越えた」とあります。まるで戦いに敗れて逃げるようであったと想像できます。
6歳の学は、藩校の知新館で勉学に励みました。父の友衛(ともえ)は「円機隊」という藩の軍長を務めており、忙しい中でも充実した生活を送っていました。しかし、学が10歳の時に病気で急死しました。ここから一家の悲劇が始まります。
主が亡くなったため、藩の屋敷から出され、殿町の小さな家に引っ越すことになり、給金も大幅に減額されました。近くに住む叔父の小林制(ただす)からの援助もあったと思われますが、十分ではなく、母一人と子三人が生活していくには、口減らしの選択しかありませんでした。弟たちはまだ幼子だったので、学が家を出ることになりました。縁があって、三国湊(みくにみなと)(福井県)の近くの西光寺で住職をしている母方の伯父、中島性善(せいぜん)の所へ行くことになりました。
出発の朝、小林制に手を引かれ、母と弟たちとの別れです。祖母のきせも見送りに出てきていました。
「おしん」というドラマでは、おしんが口減らしのため、奉公先に出発するシーンがあります。川舟が岸を離れる時、それまで無口だった父親が、堰を切ったように手を振り別れの言葉を叫ぶ涙の別れの場面です。この場面と重ねてみてください。幼い少年にとってどれほどむごい別れであったか想像できると思います。
今、朝の連続ドラマで話題の植物学者である牧野富太郎も、幼少期に病気で両親を亡くしており、二人とも幼い時に悲しい思いをしています。
西光寺での学は、寺の「小僧」で、庭掃除や廊下の雑巾がけなどの雑用をしました。それでも、地元の小学校に通わせてもらいました。頭の良い子だったので、学校は寺と比べて楽しかったと思われます。学の新たな人生が、ここから始まりました。
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