■恵那にあった民有鉄道
その二岩村電気軌道
西部良治(りょうじ)さん
明治39年に岩村電車が開業したことにより、岩村と大井間の貨物輸送量が倍増しました。岩村電車が開業する前の年間貨物輸送量は、約4500トンでしたが、明治41年には9863トンとなり、岩村電車がそのうちの6863トンを担っていました。当時は年中無休で営業しており、一カ月の乗客数は平均3339人、輸送貨物は平均394トンでした。
貨物の種類は、木材や繭、肥料、穀物、みそ、しょうゆなどですが、上矢作で焼かれた木炭は、岩村から大井へ運ばれ、その日のうちに中央線で名古屋まで届いていました。明治41年の岩村電車の運行本数は一日6往復で、運賃は全線で25銭(現在の5000円程度)。停車駅は、大井、東野、小澤(おさわ)(※)、箕之輪(みのわ)(※)、岩村でした。
また、岩村電気軌道は、岩村町小澤に水力発電所を設け、電車の電気を供給していましたが、一般への電気供給も明治40年から開始し、岩村町、大井町、長島町、坂本村、本郷村(※)、東野村の計1600戸に白熱灯が取り付けられました。その様子は「実に山間の不夜城を実現せり」と当時の資料に表現されています。
大正9年、岩村電気軌道は、発電所建設のため輸送力を強化しようとする矢作水力という会社と合併し、矢作水力電気軌道となりました。矢作水力は、福沢桃介(ももすけ)が矢作川水系の電源開発を行うため設置した会社です。この合併により、岩村から上村までは、索道(さくどう)という空中ロープで資材を運ぶようになりました。
※小澤、箕之輪、本郷村は現在の岩村町です
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