この地域にあって身近に親しまれている山や、はるかに望む山々について、まつわる歴史や文化を紹介します。
■愛宕山(あたごやま)
標高268M
時に私たちの記憶とその土地の情景とを強くひも付け、いつまでも心に残り続ける山。現在の下米田町に生まれ、ここで少年時代を過ごした津田左右吉(つだそうきち)(1873~1961年)にとっても、生家周辺の山々はそのような身近な存在でした。
日本思想史や古代史を中心に数々の著作を世に出した歴史学者の津田ですが、晩年には小さい頃を「子どもの時のおもひで」として易しい文章でつづっています。自らの故郷の様子を都会と比べて「やまが」と称し、日常に溶け込む山の姿を想起する中で、特に馴染み深かったのが、生家の北側(現加茂郡川辺町)にそびえていた愛宕山でしょう。
「子どもの時のおもひで」によると津田少年は、春にはこの山頂から南方の麦畑に混じる菜の花の景色を楽しみ、秋には家族に連れられてキノコ狩りに出かけていたようです。また母校の文明小学校は、開校当初はその麓にあり、学校行事では全児童で中腹の加茂神社にお参りをしています。ここに以前「誰かの城があったという話を聞いた」と回想しているのは、米田一帯を治めていた肥田氏が室町時代末期に築城した米田城のことでしょうか。今は礎石や堀の跡のみが往時をしのばせます。
山裾がのびやかな稜線(りょうせん)を描く様子を津田は「フジ(富士)山のような形」と例えていますが、今でもこの山は「米田富士」の別名で親しまれています。1960(昭和35)年、市名誉市民の推戴(すいたい)式において88歳になった津田は「故郷の山や川は変わらぬが、八十年の才月は人の世を大きく変えた。」と述べたそうです。
長い歴史を人よりも深く見つめてきた津田だからこそ、その目に映る変わらない山の形は、心から懐かしく安らぐ光景だったことでしょう。
◇参考文献
・「こどもの時のおもひで(津田左右吉『おもひだすまゝ』所収/岩波書店:1949年)」
・『展示図録「子どもの時のおもひで」を読みとく展―津田左右吉生誕150年―(美濃加茂市民ミュージアム:2023年)』
問合せ:文化の森
【電話】28-1110
<この記事についてアンケートにご協力ください。>