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[特集01]美濃加茂市 市制施行 70周年(1)

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岐阜県美濃加茂市

「綜合(そうごう)文化都市建設へ―。」美濃加茂市の誕生にあたり、初代市長を務めた渡辺栄一(わたなべえいいち)市長は、市民の団結をもとにした強力で豊かな市政の実現を呼び掛けました。
加茂郡内の太田町と古井町を中心に、山之上村、蜂屋村、加茂野村、伊深村、三和村(川浦地区、廿屋地区)、下米田村、和知村牧野地区が合併して、昭和29(1954)年4月1日に産声をあげた美濃加茂市。各所で祝賀行事が行われ、市民はさまざまな思いを分かち合いながら、美濃加茂のこれからについて思いを馳せました。
鮮やかな情景が散りばめられた『美濃加茂市の歌』(昭和38年制定)の歌詞には、「東海の要」に生きる者としての自負や誇り、そして希望が満ちあふれています。当時、そこはまさに「新しき陽の差すところ」でした。
市制が施行されてから70年。社会が急速に拡大と変化を続けるなか、いくつもの困難を乗り越えて、道路や上下水道をはじめとする都市基盤の整備や、教育・文化・福祉の充実などが進められ、今では5万7千を超える人たちが暮らす地方都市へと発展したのです。

■美濃加茂市の軌跡
1954年(昭和29年)4月1日、当時の太田町、古井町、山之上村、蜂屋村、加茂野村、伊深村、下米田村、三和村の一部と和知村の一部が合併して現在の美濃加茂市が誕生しました。当時、日本国内では、映画『ゴジラ』の公開や名古屋テレビ塔(現在の中部電力ミライタワー)の完成など、現代もなお、多くの人に愛されている作品や建築物などが誕生したほか、戦後の混乱から日本経済が立ち直りつつある激動の時代でした。
では、この頃の美濃加茂市はどうだったのでしょうか。当時の様子を振り返っていくと、市の南部にあたる太田町と古井町は、境界が分からないほどに民家が軒をつらね、一つの市街地を形成していたといわれています。また、行政や経済、交通の要衝でもあったので、町村合併は何度か話題に上がっていたようです。
昭和28(1953)年10月に「町村合併促進法」が施行されると、岐阜県の出先機関であった加茂地域事務所は太田町を中心とする古井・山之上・蜂屋・加茂野・坂祝・富田・伊深・加治田・下米田の10カ町村のうち富田村と加治田村は2カ村の合併を決定し、坂祝村は同意しなかったため、残る7カ町村で「加茂郡西部町村合併促進協議会」を結成。その後、この協議会に三和村の大字廿屋・川浦と和知村の大字牧野が参加し、合併による市制施行が合意されました。
なお、昭和29年3月19日に岐阜県へ提出された「町村合併申請書」には、「交通、風俗、人情、習慣等を一つにし、密接不可分の関係にある当合併地区間の距離は、交通の発達と通信機器の発達と相まってより短縮され、促進法の施行とともに合併の必然性をより認識し、急速に市実現に向かって大同団結し、ここに協議決定されるに及んだものである」とその経緯が記されています。
新しい市の名称は当地方が昔、美濃国加茂郡と呼ばれていたことにちなみ「美濃加茂」と決定されました。こうして、昭和29(1954)年4月1日、美濃加茂市が誕生したのです。
市役所庁舎には、昭和36年に現在の庁舎が完成するまで、旧太田町役場(写真)が暫定的に使われました。合併申請当時の人口は31629人、戸数は5511戸でした。

▽参考文献
『美濃加茂市史』
通史編(昭和55年1月発行)
史料編(昭和52年3月発行)

問合せ:秘書広報課秘書係 
【電話】25-2111(内線236)

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